「なぁ、藍」
「ん、ん?」
「明日、休みだろ? 用事あんの?」
別にないよと藍が答えると、寛人はグリと奥を擦って鎖骨に噛み付く。藍は痛い痛いと苦笑しながら寛人の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「……明日、ちょっと出かけないか」
「いいよ。久しぶりだね、二人で出かけるの」
「ん」
あの日から、十日ほどが経っている。寛人はあれからも藍を何度か抱いたが、「ナカに出したい」とは言い出さなかった。
藍は深く考えることなく、今も寛人の熱杭を受け入れている。ソファに座った寛人の上から腰を沈めて抱き合う体位を、藍は結構気に入っている。
「俺と暮らし始めてから、お前、彼氏できた?」
「ううん。寛人は?」
「五人」
チリと胸の奥が痛んだ気がしたが、それがなぜなのか藍にはわからない。藍は気のせいだと思うことにした。
「へぇ。五人と付き合ったの?」
「そ。全員からフラレた。難しいな、カノジョは」
「付き合ったその日のうちにホテルに行こうとしたんじゃないの?」
「それのどこが悪いんだよ。ラーメン屋に連れてっただけでフラレたこともあったぞ」
寛人は合点がいかないという表情をしていたが、藍にはなぜ彼に彼女ができないのか、長続きしないのかわかる。張り切ってお洒落したのに、連れて行かれた先がラーメン屋だったら、ちょっと泣きたくなるかもしれない。ホテルへ直行ならフラレて当然だ。
それが「恋人」でなくて「セフレ」なら気にならないのに――そんな言葉を飲み込む。
「いいな、ラーメン。連れてってよ」
「塩の美味い店、見つけた」
「っあ、いいな、塩ラーメ、んんっ」
腰を高く持ち上げられて、一気に落とされた。寛人の亀頭と膣奥がぶつかる。痛いと非難の目を向けると、寛人がニヤニヤ笑っているところだった。
「な、に?」
「お前んナカ、良すぎ」
そりゃ、二年もヤッてりゃね、と藍は苦笑する。
二人は大学の友人だった。当時はお互いに恋人がいたが、二年前はたまたま恋人がいない時期で、寂しかったのだろう。飲み屋でばったり鉢合わせて、酔っ払ったままホテルでセックスをした。
たった一回だけで終わるはずだった。そのたった一回で、かなり相性がいいと判明した。二回目、三回目と会う回数とセックスする回数は増えていき、気がつけば同居していた。
三日に一回は、寛人は藍を求める。藍のほうも満更ではない。気持ちいいことは、何回ヤッても気持ちいいのだ。体力が続けば、の話だが。
「お前、好きなやつとかいねえの?」
藍は寛人を睨む。
さっきから何なのだ、この男は。
「それ、セックスの最中にする話?」
藍は不機嫌だ。寛人の意味不明な言動と、ちょっとだけ好意を抱いている相手のことを思い浮かべて、不機嫌になった。
「すまん。野暮だった」
「ほんと、サイテー。今、他の男の話、聞きたいわけ?」
「マジごめん」
寛人は申し訳ないと思ったのか、急に激しく腰を振り始めた。藍は慌てて彼の体に縋り付く。
下から突き上げられると、冷めかけていた藍の体が蜜を出す。寛人の剛直を咥え込んで離さない。ぐちゅぐちゅと卑猥な音を立てながら、二人はただ気持ち良くなることだけに集中する。
「あっ、ひろ、とぉっ」
「ん」
口内も下腹部も深く繋がりながら、目の前の男が寛人ではなく課長だったら、と藍は妄想する。
愛妻家で子煩悩な課長が自分とどうにかなるなんて、藍は期待していない。ただ、寛人を通して課長とセックスをしているという妄想くらいはしてもいいのではないかと思っているだけだ。
相手が寛人だから。セフレだから。失礼なことだとは思うが、咎められるようなことではない。
相手が恋人なら、それは裏切りだ。小さな浮気だ。
だから、藍は恋人を作らない。セフレの中に憧れの人を見ていたい。
だから、寛人だけでいい、のだ。
「ダメ、イキそ……あっ、ん」
「いいよ。イケよ。俺もそろそろ限界」
激しく揺さぶられながら、課長ならイクときどんなふうに言うだろうかなんて野暮なことを考える。
『一緒にイこう』
『ナカに出すよ』
『俺の子を孕んでくれ』
サイテーなのは自分だ、と藍は自覚している。サイテーの女だ、と。
「藍」
「あ、っもっと、名前、呼ん――」
「……藍、気持ちいい。藍、奥に、出すぞ」
「ん、うん、おねが、あぁっ」
藍には、これがセックスなのかオナニーなのか、よくわからない。寛人を使っての自慰行為なのではないかと疑っている。
「ナカ、に、出してっ、かちょ……あぁっ」
寛人に強く抱きしめられながら、藍は達する。藍の妄想の中で、課長はナマで奥に精液を注ぎ込んでくれた――ことになっている。
寛人もどうやらイッたようで、腰の動きが止まっている。荒い息でお互いの舌を貪り合いながら、寛人がなかなか体を離さないのを藍は訝しく思う。けれど、達したあとのキスは好きなので、しばらくそのままでもいいか、なんて気楽に考えていた。
「藍」
「うん?」
「俺、まだ課長じゃないんだけど」
寛人にしては低い声だった。慌てて寛人の目を見ると、めちゃくちゃ睨まれていた。怒ってる、と藍はすぐに理解し――自らの失言を思い出す。
「え、あ、ごめ……」
「課長? お前、課長が好きなの?」
「いや、そうじゃなく」
「俺を使ってオナニーしてたのかよ」
「だ、から」
どんな言い訳をしても、寛人は納得しないだろう。しかし、認めて開き直るのも違う。
寛人とこんなことで関係を解消したくはない。それだけは回避したい。
そんな、ゲスな考えだけ思い浮かぶ。
「……ごめんなさい」
「俺に抱かれながら、オナってた?」
「……は、い」
「課長とはヤッたことあんの?」
「ないよ! ないです!」
早く抜かなきゃ、と藍は思う。ゴムが中で外れちゃうと焦る。ピルを飲んではいるけれど、そういう問題ではないのだ。
藍が腰を浮かそうとすると、寛人が押さえつける。「逃げるなよ」と低い声で脅される。
「俺もサイテーだったけど、お前もサイテーだな」
「はい、ごめんなさい……」
「俺とはセックスしたくない?」
「違う、そうじゃない!」
藍は泣きそうだった。
寛人に責められるのは仕方がない。どうすれば溜飲を下げてくれるだろうかと、そればかり考える。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい……許して欲しいです」
「じゃあ、明日、俺の言うことを何でも聞いてくれる?」
「……何でも?」
「何でも。それで許すよ」
寛人は笑っていた。ものすごく、悪い顔で。
ナマで中出しフルコースでも、仕方ない。ピルをちゃんと飲んでおこう、と藍は頷く。
「わかった。明日は何でも言うこと聞く」
「よし」
柔らかくなったモノを引き抜いて、ティッシュで後始末をする。ぐったりとソファに倒れ込んだ藍に、寛人が声をかける。
「明日、ノーパンね」
悪い笑顔の寛人が藍を見下ろしていた。
「ノーパン……?」
「明日が楽しみだなぁ!」
金輪際、妄想するのはやめておこう、と藍は心に決める。あれは危険なオナニーだ。
嫌な予感しかしない、と藍は絶望した。
◆◇◆◇◆
暗い壁。そこまで明るくない照明。肌寒い空間。小さく聞こえる泡の音。目の前を泳ぐ小さな魚を見ながら、自分も海の底にいるみたいだと藍は思う。
寛人が藍を連れてきたのは、水族館だった。平日なので館内は空いている。トンネル型の水槽はいつまでも見ていたいくらいに気に入ったが、いかんせん、首が痛い。ずっと見上げているよりは、普通の目線で見られる展示のほうがいい。サンゴ礁もクラゲも気に入った。
寛人とはつかず離れず、歩く。寛人は魚より説明書きをきちんと読みたいタイプで、藍は魚をじっくり見たいタイプ。水槽から離れるタイミングは、大体同じ。
初めて、デートのようなことをしている。
藍は説明パネルを読んでいる寛人の横顔を見上げる。難しい顔をしながらも、彼は上の空だ。藍がノーパンであることも、きっと覚えていない。
スースーして仕方がないスカートを押さえながら、藍は心の中で「寛人のバカ!」と罵る。こんなことならショーツを穿いてくるんだった、と嘆きながら、ふと思う。
藍がムカついているのは、ノーパンを覚えていない寛人なのか、触ってこない寛人なのか。公共の場で恥ずかしいことをしてこない寛人なのか。つまり、自分は「してほしい」のか――。
そうか。せっかくノーパンなのだから、せめて一度くらいは話題にしてほしいのだ、自分は。
藍は納得した。思っている以上に、自分は恥ずかしい存在であるらしい。
「この魚、美味いんだってさ」
「へぇ。さっきの派手な魚は不味いらしいね。地味な色の魚のほうが美味しいんだね」
説明パネルに「この魚は美味いか不味いか」を書いてくれているのは、親切だ。食べたくなってくる。近くに寿司屋があるといいな、と藍は思う。
「休むか?」
館内のレストランでランチを食べることにした。藍のお尻は少しヒヤリとした。クッションのないプラスチック製の椅子だとどうしても冷たさを感じてしまうみたいだ。
ガラス張りの店内は、非常に明るい。景色もいい。窓際に座ると、料理を待つ時間も飽きることがない。ぼうっとしていられる。
「ペンギンはいいね。空を飛ばないのがいい」
「空を飛んでいるように展示してある水族館もあるみたいだよ」
「マジかよ。そっちも行ってみてえ」
寛人が水族館好きだとは、藍は知らなかった。彼女をラーメン屋に連れて行くよりも、ずっと効果的だと思う。水族館に連れていけば、別れることもなかっただろうに。
取りとめのない話をしながら、二人でランチを食べる。さすがに刺し身や寿司はなかったが、シーフードドリアは結構美味しかったと思う。
「あの、さぁ」
食後のコーヒーを待っているときに、寛人がようやく、今日初めて藍と目を合わせた。
「うん?」
「……本社に、異動になる」
藍は「なるほど」と唸る。それが、寛人が上の空だった理由なのだろう。つまり、ノーパンよりも大事なこと。
腑に落ちないのは、寛人が、全然嬉しそうではないという点だ。そして、何だか胸がチリチリ痛むのだ。藍は不思議でたまらない。
「おめでとう。本社行きたがってたもんね。夢、叶ったじゃん」
「ああ。でも、まだ迷ってる。内辞の段階だし……」
「何で迷うの? 行けばいいじゃん。せっかくのチャンスなんだから」
そうだ。せっかくのチャンスをふいにすることはない。たとえ、本社が――ここから遠く離れた、名古屋であっても。
「名古屋、行きなよ。頑張りが認められたんだから」
言いながら、藍は鞄からピルケースを出す。そして、自分の指が震えていることには気づかないのに、寛人の視線には気づく。悲しそうな、彼の視線に。
「ちょっと、待って。やめてよ、バカなこと言うのは」
「何が?」
「お前が心配で名古屋に行きたくない、とか言わないでよ」
寛人がいなくなったら、また他の同居人を探すだけのこと。見つからなければ、一人で住める場所に引っ越すだけのこと。
大丈夫、大丈夫。そう言い聞かせる。
心配なんてしなくても大丈夫だ。自分のせいで寛人の出世の邪魔をしたくない。それは、普通の考え方だ。
「ルームシェアしてくれる子、探さなきゃ」
「……男を?」
「女の子がいいな、できれば。でも、見つからなかったら」
「男でもいいのか? 男と住むのか?」
寛人から非難の視線で見られることに、藍は納得できない。
自分たちはセフレであって、お互いを束縛する理由も権利もないのだ。寛人から同居人について口を出される理由がないのだ。
「――男と、セックスすんのか?」
「ちょっと、やめてよ。ここ水族館だよ」
「んなの、関係ねえよ。俺がいなくなったら、お前は課長を連れ込むのか?」
「だから、課長は関係ないって」
別に課長とどうこうなりたいわけじゃないし、と藍は呟く。ちょっとの好意が恋愛感情に繋がるわけではない。課長にそこまでの大きな感情はない。
藍は意味不明な言動を繰り返す寛人にうんざりしてきた。
わけがわからないと思いながら、水と同時に小さなオレンジ色の錠剤を飲む。藍はいつも昼にピルを飲んでいるのだ。
「お前、体調悪いの?」
「あぁ、違うよ。風邪薬じゃないよ。ピルだよ」
「……ピル?」
「うん。排卵を抑える薬」
瞬間、だった。ピリ、と、空気が、変わった。
「……藍」
ひどく低い声の寛人に、睨みつけられる。さすがに、寛人が怒っていると藍にも理解できた。ただ、理由がさっぱりわからない。
なぜ、寛人が怒っているのか。
なぜ、自分が怒られなければならないのか。
「お前」
「な、なに?」
「俺がいなくなるの、寂しくないわけ?」
「え?」
藍は少し考える。寛人がいなくなったあとのことを。
女の子とルームシェアができるにしても、セックスはしないし、気は使う。曜日を決めて家事を分担しましょうと提案してくる、真面目な女の子はお断りだ。
男とルームシェアをするにしても、やっぱりセックスはしないだろうと藍は思う。男のほうには下心があるかもしれないが、藍は体だけの関係はもう必要ないと思っている。
緩く生きていたい。
家事なんて適当でいいし、会話はあってもなくてもいい。家賃や光熱費はどんぶり勘定で構わない。お互いがお互いのテリトリーで、気持ち良く過ごせたら、それでいい。
寛人は藍のそんな考えを許し、受け入れてくれた。それは藍にとって、とても居心地が良かった。
元々、一人だった。二人の期間が終わり、また一人に戻るだけ。寂しいと言えば寂しいのかもしれないが、それに慣れてしまっている自分がいる。胸がチリチリ痛む理由を、藍は「違う、寂しいんじゃない」と結論づける他ない。
「……わかんない。ふとしたときに寛人のことを思い出すのかもしれないけど、それを寂しいと思うのかは、わからない」
寛人は?
聞きかけて、藍は気づく。寛人がなぜ怒っているのか。まさか、とは思ったが、寛人の顔が、切なそうに歪んでいるのを見て、確信を得る。
「寛人」
「――んだよ」
「寛人は寂しいんだ?」
笑うわけではない。嘲るわけではない。
そっか、寂しいんだ。寛人は寂しく思ってくれたんだ。
寛人からのちょっとの好意が自分に向いていることに、藍は何だか不思議と嬉しい気分になった。そう、嬉しかった。チリと痛む胸の意味を、藍はようやく理解した。
「ばっ、な、お前……っ!」
コーヒーがじきに運ばれてくるのは、わかっていた。けれど、藍はその時間すら惜しかった。伝票はまだ来ていない。席の番号だけ確認して、レジへと向かう。
「ちょっ、藍!?」
「ん、行こう」
藍は寛人の手を取り、歩く。
初めて、手を繋いで、歩く。
図星をつかれて真っ赤になっているセフレを見て、藍はただ、思ったのだ。
今すぐ、寛人を抱きたい、と。
いつも求められてきた藍が、流されるままに受け入れてきた藍が、初めて、能動的に寛人を求めた瞬間だった。