執着年下男子とビッチ年上女子・ハッピーエンド

◆◇◆◇◆

「うぅん、面倒くさいなぁ、これ」

 あやはパソコンの画面を見ながら唸り、左手の人差し指と親指で左耳の耳朶を摘んだ。絢は面倒くさいことが苦手だ。できれば回避したい。しかし、仕事を放り出すわけにもいかない。面倒くさくてもやり遂げなければならない。
 指に触れる金属と宝石の冷たさに、絢の気持ちも少しずつ落ち着いていく。『珠玉』の店員が説明した通り、トルマリンには確かにイライラを和らげる効能があるようだと思いながら、絢は表とグラフから読み取れる情報を空いた右手で端的に入力していく。プレゼンでの流れを頭の中で描きながら作業するのは、いつものことだ。

「あの、河合さん、すみません」

 声をかけられたので顔を上げると、入社二年目の後輩が絢を睨み付けながらデスクの側に立っていた。目が悪いのか、元来の癖なのか、そういう目なのかわからないが、絢には彼がいつも不機嫌そうに自分を睨んでいるように見える。割とイケメンなんだからもう少し笑えばいいのに、と絢は思っている。もちろん、本人に伝えたことはない。

「どうしました、山中くん」
「ここの入場者数予測なんですけど、前年比だけで算出するとほぼ二倍になって嘘みたいな数字になってしまうので、どうにか現実的な予測を出したいのですが、何かいい案はありませんか?」
「んー、三年目ですか。確かにイベントが周知はされてきてはいても、単純に二倍にはならないですね。何年か前のイベントのデータでよければ、二年目と三年目の前年比のサンプルが出せると思うので添付して送りますね」
「ありがとうございます、助かります」

 山中慎介は丁寧に頭を下げ、二つ向こうのデスクへ戻っていく。絢は入力を終わらせ、慎介のために、自分が以前関わったイベントのデータを引っ張り出してくる。参考になろうがなるまいが、それを使うかどうか判断するのは慎介だ。
 暗号化したデータを添付し、社内メールで慎介に送っておく。その後、絢はまた片耳のみのピアスを触りながら、数字と睨み合うのだ。

 入社一年目は適性検査や本人の希望を加味した部署に配属になり、三年くらいは異動がないのが常だが、慎介は二年目でいきなり部署の異動をしてきた。元の部署との折り合いが悪かったのか、それとも営業をやりたくなったのか、絢には詳しいことはわからない。とにかくイレギュラーな異動であることに間違いはない。
 半月前、上司から慎介の教育係を命じられた絢だったが、打ち解けているとは言い難い関係だ。慎介は絢に対して不満があるらしい。それ以外に、睨まれる覚えがない。
 覚えがいいので、いくつかの案件のデータから収益予測を出させているが、営業補助のような作業が嫌だったのだろうか。営業部と言うからには、デスクワークではなく外に出たいのかもしれない。
 しかし、クライアントに新たな提案をするには、既存の情報を整理する時間も必要だと絢は考えている。営業とは数字の戦場だからだ。

「でも、次の案件、連れて行ってあげるかなぁ。それも勉強だもんなぁ」

 自販機の横にあるベンチに座りコーヒーを飲みながら、絢が溜め息を一つ吐き出したときだ。

「河合さん、今日はパライバなんですね」

 いきなり、慎介の声が隣から聞こえてきた。絢は「わあ」と驚いて缶を落としそうになる。考え事をしているときに話しかけられるのは、かなり心臓に悪い。
 取り出し口から黄色い炭酸ジュースを取り出して、慎介は自身の左耳を指した。

「そのピアス、パライバトルマリンですよね?」
「え? え? 山中くん、宝石わかる人?」

 絢はさらに驚いた。特徴的なネオンブルーの宝石は見る人が見ればわかるものだが、男性で宝石名を当てた人はいない。ダイヤしか知らない、ジルコンとキュービックジルコニアの区別もつかない男性がほとんどだからだ。
 パライバトルマリン、と口にしたのは慎介が初めてだ。絢の心が踊る。宝石がわかる男性、それは宝石好きの女にとっては大変に貴重で喜ばしい存在だ。

「昨日はトパーズ、その前はサファイアでしたよね。今日のインディゴライトのペンダント、トルマリンで合わせているんですよね」
「そう! そうなの!」

 仕事中は年下にも敬語を使う、という絢の小さなこだわりは、今この場では完全に忘れられていた。絢は素の自分に戻ってしまっている。もちろん、絢はまだ気づいていない。

「さすがにねー、パライバで全部固めたらキラキラしすぎかと思って。インディゴだと落ち着いて見えるし」
「確かに。青とか緑の系統だと、河合さんはサファイアよりインディゴライトとかアレキサンドライトのほうが似合いますよ」
「えー、そう? アレキサンドライトのラウンドカットのルース、ちょうど欲しいと思ってたんだよね。高いけど買っちゃおうかなー」
「ペンダントにするのはいいかもしれませんね。そういえば昨日のトパーズは両耳ありましたが、今日は片耳だけなんですね。片耳のパライバはなくしたんですか?」
「そう、いつの間にかなくしちゃって! でも、パライバは高いし、買った工房に同程度のものがなかなか入荷しなくて、結局片耳だけ……って、ごめん、ちょっと調子に乗っちゃった……乗っちゃいましたね」

 慌てて「オン」の状態に戻したが、慎介は笑みを浮かべたまま絢を見下ろしている。慎介の笑顔など、歓迎会以来見たことがなかったので新鮮だ。いつも睨まれているので、そういう表情もできるのかと絢は感心する。慎介は、笑うと線のように目が細くなる。意外と可愛い笑顔だな、と絢は思う。

「あー、そうだ、河合さん。今日は外回り、ないですよね? 今夜予定あります?」
「え、あ、あぁ、ないよ、ないです。どうかしましたか?」
「ちょっと相談に乗ってもらいたいことがありまして」

 営業の仕事のことかな、と絢は考え頷く。やっぱり外回りに行きたい時期だよな、と納得する。相談に乗るのも、教育係の仕事のうちだ。

「じゃあ、ご飯でも食べながら、にしますか?」
「ぜひ。お時間取らせてしまってすみませんが」
「気にしないでください。明日は休みですし」

 缶コーヒーを飲み切ってくずかごに捨てたあと、一足先に絢は部署へと戻る。接待でよく使う料亭に後輩と行くには敷居が高すぎる。同僚なのだから大衆食堂や居酒屋でいいかと判断し、個室がある店はどこだったかな、と思い出しながら歩くのだ。

◆◇◆◇◆

「ですからー、俺はー、好きな人を彼女にしたいんであってー、誰でもいいから彼女が欲しいわけじゃないんですよー、ねー、かーいさん、わかりますー?」
「わかります、わかります、すごくよくわかります」

 絢は驚いていた。慎介は中ジョッキ半分で出来上がってしまったのだ。先週あった歓迎会のときは席が離れていたので、絢は慎介が酒に弱いことを知らなかった。知っていれば居酒屋ではなくレストランへ向かったのに、と今さら後悔している。何しろ、慎介はよく絡んでくるのだ。面倒くさくて仕方がない。
 慎介は前の部署の部長から「早く結婚しろ、相手がいないなら俺の娘なんてどうだ?」と去年一年ずっと言われ続けてきたらしい。異動してからも、恋人がいないとわかるやいなや営業部の男性陣から毎日キャバクラや風俗に誘われて困っているらしい。慎介が「好きな人がいる」と公言しているにも関わらず、だ。
 それは確かに面倒くさい事案だなぁと頷きながら、絢はイカの刺し身を頬張る。
 絢にもその手のハラスメントは多々ある。しかし、真面目に取り合うものではないと知っている。慎介に必要なのはその処世術だろう。

「じゃあ早くその人に告白して彼女になってもらわないといけませんね」
「それができたら苦労しませんよー!」
「ごもっとも。あ、お冷や一つお願いします」

 面倒くさい事案に足を突っ込んじゃったなぁ、と絢はたこわさを口に運ぶ。わさびがツンと鼻を抜けていく。
 好きな人を恋人にしたい。そんな純粋な気持ち、絢はとうになくしてしまった。片方のパライバトルマリンと同じように、恋する心も愛する心もどこかへ置き忘れてしまったのだ。わさびで泣くことはあっても、恋人を想い流す涙など枯れている。
 慎介が羨ましいとさえ思う。恋人が欲しいという相談自体、面倒ではあるが微笑ましいものだと絢は思っている。

「何が問題なんですか? 山中くんの問題? その人の問題?」
「彼女、ガードがめちゃくちゃ堅いんです」
「へえ。お酒飲ませちゃえば……と思ったけど、山中くんのほうが先に潰れそうですもんね」
「はい。それに、彼女、俺のことを何とも思ってないです」
「それは聞いてみないとわからないんじゃないですか?」
「わかりますよー! 俺、彼女に会うの二回目なのに、一回目のことを完全に覚えていないんです!」
「合コンとかですか? それは確かにショックですね」
「俺、童貞だったのに……!」

 ベッドインしたことを忘れられているとしたら、それはかなり切ない話だ。脈はないと考えるのが自然だ。彼女の眼中に慎介はいない、ということだ。
 飲ませすぎちゃったかな、と絢は半分しか空いていないジョッキを見る。部署内では普通の話題ではあるが、慎介から下ネタを聞くのは初めてだった。慎介はだいぶ酔っているのだろう。
 水が運ばれてきたので、それを慎介の前に置いて、絢は温くなってしまったビールを引き取る。もちろん、酔っ払いは気づいていない。

「俺、大学入学で上京して来たばかりだったんです。新歓のあと、ナンパしてきたのが彼女でー」
「んー、五年前の話ですね?」
「彼女、社長賞をもらって部の皆に祝ってもらったとかで、かなり酔っててー。気分がいいからってラブホに連れ込まれてー」
「……社長、賞」

 五年前に、社長賞。絢は逆算する。

「俺童貞だったのに、キスもそこそこに七回もイカされて……朝起きたら、その人忽然と消えてて……つまり、俺はヤリ捨てられたんです」
「へ、へえ……」

 五年前に社長賞をもらい、営業部の面々に祝ってもらった覚えのある絢は、大変落ち着かないまま枝豆を頬張る。

「名前も連絡先も教えてもらってないから、どうすればいいのかわかりませんよねー、本当に!」
「そう、ですね。あの、それで山中くんはどうしたんですか?」
「手がかりが一つだけあったので、それを手に都内を駆けずり回りましたよー」

 手がかり。絢は左耳のパライバトルマリンに触れる。五年前、飲み会のあと不注意でなくしてしまったピアスの片割れ。相変わらずひやりと冷たい。しかし、心は落ち着かない。

「何回か女の子と付き合いましたけど、その人のことが全然忘れられなくてー。一回だけのその人と、彼女とを比べてしまうなんて、俺、本当に最低でー」
「ま、まぁ、よくある話ですよ。普通のことじゃないですか?」
「普通じゃありませんよ。普通じゃないんです、俺」

 絢は顔を伏せたまま、次になんて慰めようか考える。何を言うべきか考える。

「ねぇ、河合さん」

 名前を呼ばれ、顔を上げた瞬間に、絢は後悔した。これは、用意周到な罠だとようやく気づいたのだ。

「右耳のパライバトルマリン、いつ、どこでなくしました?」

 慎介は、笑っている。目を糸のように細くして。

「ジュエリー工房『珠玉』を探し出すのに二年、あなたの素性を調べるのに二年かかりました」

 確かに、彼は普通じゃないのかもしれない。
 もちろん、ラブホテルで筆下ろしをしたいたいけな大学生の顔すら覚えていなかった絢自身も、普通ではないと自覚している。

「ちなみに『珠玉』の店内でも何回かすれ違っています。だから、会社で会ったのは、厳密には二回目じゃないです」

 ごめんなさい。すみません。申し訳ございませんでした。
 どの言葉で謝罪するべきか、絢は冷や汗をかきながら考える。しかし、どの言葉も、彼は望んでいないように思えてならない。
 山中慎介は何が望みなのか。
 クライアントの要望をまとめ上げるのに長けている絢でも、その答えを出していいものかどうか判断できない。

「……気持ち悪いですか?」

 無言の絢に不安に思ったのか、慎介は泣きそうな顔で彼女を見つめる。その表情で、絢はすべてを悟る。
 山中慎介は、存外優しい男なのだと。
 自分とは違うのだ、と。

「私はねぇ、山中くんが考えている以上に最低な女ですよ?」

 絢の中で一番重要だったのは、彼が気持ち悪いかどうかではない。ストーキング行為を許せるかどうかでもない。

「知っていますよ。素性は調べたと言ったじゃありませんか。入社一年で社長賞を取るなんて、なかなかできません」
「大学生をヤリ捨てることもありますし」
「頻繁ではないでしょう」
「オトモダチが何人かいますし」
「女の武器と言い換えましょうか。コネが必要で繋がっているんでしょう? 時間をいただければそのコネがなくても大丈夫なくらいの数字を掴んできますよ」
「何より、パライバが戻ることを喜んでいますし」
「お返しするとは言っていませんが」
「えっ?」

 絢は目を丸くして慎介を見る。慎介はどこかから取り出したネオンブルーのピアスを指で摘みながら、笑っている。五年前に絢がなくしたパライバトルマリンだ。クリーニングをしてくれていたのか、大切に扱ってくれていたのか、輝きにくすみなどは見られない。持ち主が判明したのでてっきり返してくれるものと思っていたが、慎介はそうは言わなかった。

「お返しするとは言っていません」
「でもそれは」
「そう、河合さんのものですよ。『珠玉』で作られたピアスで間違いないと店長も認めています。でも、返しません」
「……どうすれば返してくれますか?」

 他の男たちと同じように、慎介からもセックスを求められるのだろうかと絢は考える。しかし、関係を持つにしても、大手広告代理店の専務や青年実業家ほどの旨味はない。慎介はただの同僚、しかも後輩だ。仕事の見返りがあるわけではないと十分理解している。損得で勘定をしても、絢に得があるわけではないのだ。
 ならば、取引材料を諦めてしまうのも手だ。
 絢もピアスの片方が見つかるとは思っていなかった。なくしたものと思って生きていくほうが賢明なのかもしれない。童貞をご馳走になった代金にしては高額だが、好きでもない女を相手に卒業してしまった慎介にとっては安いものかもしれないと絢は考える。
 でも、もったいないなぁ、と絢は慎介の指先で輝くネオンブルーを見つめる。もったいない。

「条件は一つだけです」

 慎介は顔を真っ赤にしながら、絢を見つめている。
 絢は鈍感な女ではない。彼が言わんとしていることに気づいて、面倒くさいことになったなぁと溜め息をつく。絢は面倒くさいことがかなり苦手なのだ。

「結婚を前提に付き合ってください」

 セフレじゃダメですか、と問おうとして絢はやめた。
 恋人を得ることより、やはり、パライバトルマリンが戻ってくることのほうが嬉しい。絢はそんな女だ。現金だ、最低だと自覚もしている。
 付き合っているうちに「やっぱり違う」と慎介も離れていくのではないかと期待して、絢はとりあえず頷くことにした。

「いいですよ」

 見えなくなりそうなくらい細くなった慎介の目に、絢が罪悪感など抱くことはなかった。

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