切ない(2015)

◆◇◆◇◆

「響子、悪いんだけど、ちょっとだけ別れてくれない?」

 孝明の言葉と行動のギャップが激しすぎて、頭がついていかない。

 え、何?
 今、このタイミングで、別れ話?
 ちょっとだけ、って、何?

 孝明は「あ、イキそう」と低く呟いて、私の子宮口を何度も強く突く。

「あっ、ん、ダメ、まだ、イカない、で」

 私も、もう少しで――。

「だったら締め付けるなよ、そんなに」
「だって、んんっ、はぁ」

 孝明は私の限界が近いことを知り、笑みを浮かべて激しく奥まで腰を打ち付ける。
 そうすれば私が達することを知っているからだ。甘い痺れがすぐそこまで来ている。

「あ、っ、ん、あ、キス」
「相変わらず、響子はキスしながら犯されるのが好きだな」

 孝明がぐっと体重をかけて、前屈みになる。
 孝明の舌を受け入れながら、コーヒーの味を絡ませ合う。
 孝明の左手が私の両手をベッドに縫い止め、右手の指がクリトリスを扱く。
 私は口を押さえることも、孝明の体をかき抱くこともできず、嬌声を漏らしながら、下腹部の刺激を受け入れている。
 子宮の奥がきゅうと疼く。膣が縮む。

 あ、ダメ、イッちゃう――。

「……っ!」

 孝明の腰が痙攣し、小さく声が漏れる。奥に孝明の精が吐き出された感覚がある。
 目を閉じて快感に震えている孝明を見るのもこれが最後かと思うと、心が冷える。

 この顔が色っぽくて、好きだった。
 私の指を絡め取る大きな手のひらが、好きだった。
 下腹部が甘く疼くほどの低音の声が、好きだった。
 ――好きだったのに。

 徐々に注挿が穏やかになる。
 はぁはぁとお互いの疲労の呼吸だけが部屋に響く。
 お互いの肌にはうっすらと汗が浮かぶ。

 孝明がずるりと熱を抜き去ると、意図していないのに腰が跳ねる。
 同時にどろりと孝明の精が漏れ出る気配がある。

 ティッシュで濡れて汚れた場所を拭い取り、ゴミ箱へ落とす。
 ベッドから起き上がって、床に降りる。
 湯を張っていた音はもう聞こえない。

「シャワー、先使っていい?」
「一緒に入ろう」
「いやだ」
「なんで?」

 私は孝明を睨めつける。
 あなた、今さっき、自分がなんて言ったかわかっているの?

「イク寸前に別れ話をするような人だとは思わなかった」

 孝明には大抵の酷いことをされてきたけど、この仕打ちはあんまりだと思う。あんまりだ。

 体は熱く達しそうなギリギリの段階で、心が氷点下まで冷えてしまった。
 なのに、熱は止まらない。
 止められない。

 せめて、セックスをする前か、した後で言ってくれたら、体も心も冷たいままでいられたのに。

 孝明は笑う。
 私の体も心も弄んで、笑っている。

「困惑と快感では、快感に軍配が上がったね」
「酷い人。そのうち憎悪に変わっても知らないよ」

 けれど、ベッドから降りた孝明は私を後ろから抱きしめる。
 耳とうなじに唇を這わせ、汗を舌で舐め取る。
 私の胸を揉み、その先端を摘んで捏ね回す。

 私の好きな前戯をしたって、ほだされはしないのに。

「……あっ、ん」
「まだ、離れて行かないで」

 どうして。
 どうして、こんな酷い人間を私の体はいともたやすく受け入れてしまうのだろう。

「離れて行かないで」なんて、さっき、「別れてくれ」と言った口で、そんな馬鹿なことを言う人なのに。
 馬鹿じゃないの。

◆◇◆◇◆

「専務の娘との結婚が決まったから、今いる女全員と関係を切った」

 乳白色のバスタブに二人でつかりながら、孝明は耳元で呟く。
 相変わらず、私を背後から抱きしめて、やわやわと胸を揉んでいる。
 私は与えられる刺激に反応しないように頑張りながら、興味なさそうに話を聞く。

 実際、興味がない。
 孝明に他に女がいても、別によかった。嫉妬もしなかったし、執着もしなかった。
 好きだとも、愛しているとも、言うことも言われることもない関係だった。
 それが、とてつもなく歪な関係だと、お互いがよくわかっている。

 けれど、その距離感が心地よく、肌を重ねるだけの関係は二年以上継続した。

「響子が最後」
「全員、セックスの最中に別れ話をしたの?」
「まさか。全員、セックスなんてしなかったよ。響子だけは、別。特別」

 特別だと言われても、何の感慨もない。
 初めて部屋に呼んだ女だと言われても、嬉しくない。

 孝明から別れ話をしたあとなのに、既に私のお尻の下で、熱を持ち硬くなりつつあるものの存在に気づく。

「響子は俺を酷く罵ったり、泣きわめいたり、殴ったり、慰謝料を請求したり、脅したりしないし――」

 精を吐き出されたあと、まだ濡れている私の割れ目を孝明の熱がたどり、侵入を試みる。
 私は腰を捩って拒否をする。
 ちらと孝明の表情を盗み見ると、少し悲しそうな目をしている。

 自業自得なのに、私を責めるんじゃない。
 馬鹿。

「――体の相性が抜群に良いから、どうしても、最後に」
「最後に?」
「いや、最後にしたくないんだ」

 馬鹿じゃないの。
 不倫なんて、絶対に無理。そんな覚悟も、愛もない。

 体の相性だって、怪しいもの。
 私だけが避妊もしないで生でできる女だからでしょう?

 孝明にはそれがわかっている。
 だから、「別れ話をしても体は求め合ってしまう。別れられない関係だ」と思わせたいのだろう。
 私を繋ぎとめて、愛人にするために。

「孝明が別れると言った以上、私は別れる」
「別れたくない」
「馬鹿なの? 私は孝明にそこまで執着していないよ」

 ぐっと腰を引き寄せられて、硬くて太い肉棒の上に座らせられる。
 怒張したそれは、早くおさまりたいと言わんばかりに、私の秘所をぬるぬると探る。

「挿れたい。響子をまだ抱いていたい」
「やめて。軽蔑するよ」
「してよ。一緒に堕ちよう」
「私を巻き込まないで」

 バスタブから出ようとした私の腕を引っ張って、孝明は私を腕の中に閉じ込める。
 真正面から孝明の顔を見つめると、相変わらず整った顔だなと思う。
 好みではないけれど、嫌悪感はない。
 だからこそ、ここまで来てしまった。

 孝明の体は熱い。風呂のせいだ。
 湯が熱いから、体を温め、凍った心を溶かしてしまう。

 頬に触れてこようとする手を払い除けると、孝明は傷ついたとでも言いたそうな視線を寄越す。
 たぶん、あなた以上に私のほうが傷ついているのに。

「離れるのはちょっとの間だけでいいんだ。ほとぼりが冷めたら、また連絡する」
「やめて」

 連絡も、あなたのその熱も、私にはもう必要がないの。
 必要ないんだから、解放して。

「響子っ」

 孝明の低い声が、私を求める。

 荒々しい口付けのあと、孝明はすぐに舌を口内へと侵入させてくる。
 そして、私の腰を掴んで離さない。
 それどころか、彼自身の熱に触れさせようと、否、熱を埋め込もうとしてくる。
 いつもは丁寧に愛撫して高めてくれるのに、あまりに早急すぎる。

「ちょっと、たかあ……っ、あ」

 ぬるりと熱い肉棒が、割れ目から一気に挿入ってくる。
 孝明の強引な侵入を許してしまった私の馬鹿。
 こうなってしまったら、もう、どちらかが達するまで繋がりが解けることはない。
 それもわかっている。

 対面座位で抱き合って、あちこちに赤い痕を残しながら、孝明は乳白色の水面を揺らす。

「響子っ、響子っ!」

 未だかつて、私はここまで孝明に求められたことがあっただろうか。

 ……ない。初めてだ。

 こんなふうに名前を呼ばれながら繋がることが、どれだけ幸せなことか、きっと孝明にはわからない。

 ずっと欲していたのに。
 だからこそ諦めていたのに。
 最後の最後で、あなたは、残酷な記憶を私に焼き付けるのね。

「あ、ん、っく、あぁっ、ふ」

 ざぶざぶと揺れる水面が、邪魔。
 愛されたいと願う心が、邪魔。
 どんなに求めても一つになれない体が、邪魔。
 ぎゅうぎゅうと締め付けて、邪魔なものを追いやって。
 乳白色の湯の中で溶けてしまいたい。

「響子、締めないで。まだイキたくない」

 わがままな人。
 その願いは聞かない。

 ぐっと腟内を締め付けて、孝明の動きに合わせて腰を振って。
 孝明を高みへと追いやっていく。

 冷えた心は、結局、己の体にも快感をもたらさない。
 けれど、男に快楽を与えることはできる。

「あ……っ!」

 孝明は何度も痙攣した。甘い吐息を吐き出しながら。
 その、大好きだった姿を、目に焼き付けるように、私は冷静に孝明を見つめていた。

◆◇◆◇◆

 眠りについた孝明を確認して、ベッドから抜け出す。
 床に落ちた下着と服を拾って、順番に身につけていく。

「……」

 最後に、孝明からもらったネックレスをつけるかどうか、一瞬だけ悩んで、テーブルの上に置いたままにする。

 孝明のスマートフォンを見つけ、電話帳から私の名前を消す。
 迷いはない。
 彼にも私にも必要がないものだ。
 何かあれば、会社へ直接やってくればいいし、古い名刺から連絡してきてもいい。
 個人的なものは、何もいらない。

「お世話になりました」

 ベッドで眠ったままの孝明に頭を下げて、部屋のドアに手をかける。

 どろりとショーツを濡らされる感触に、私はため息をつく。
 中に出されて一番困る瞬間だ。
 孝明の絶頂を告げる白濁液は、時間が経つと、私へ不快感をもたらすだけ。

 ピルも必要なくなるなぁ。

 ドアを押し開いたあとは、私は一度も振り返らずに、部屋を出る。
 合鍵なんてものはないから、玄関に置かれた鍵で施錠して、郵便受けに落とす。

 がちゃりと大きな音がしたけれど、孝明が起きませんように。
 起きて、追いすがってきたりしませんように。
 そんな面倒な男にはなりませんように。

 祈りながら、足早にマンションを出る。
 不思議と、涙は一滴も流れることはなかった。

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