ラブコメディ(2015)

◆◇◆◇◆

 春。少し汗ばむ陽気の午後、杉下課長と私は、会社のエレベーターに閉じ込められた。
 冷房もない密室の中で二人きり、仕事の話と他愛もない話を交互にしながら、映画のような脱出劇もなく、大人しく救助を待った。喋るのが楽しくて、あっという間に時間は過ぎた。
 そして、エレベーター会社のメンテナンスの人が来て、二時間後には外に出ることができたのだけれど。

 その日から、のような気がする。
 杉下課長が、私を避け始めたのは。

◆◇◆◇◆

 杉下課長に避けられている気がするというのも、私の勘違いなら全然構わない。私がただの自意識過剰だということで終わる話。
 気のせいだったら、どんなに良かったことか。

「あ、課長」と呼び止めようとすると、こちらを見ずに足早に去って行ってしまう。何度手が空をさまよったことか。
 私がエレベーターの前で待っていると、杉下課長はダイエットをしているのだと言ってすぐに階段を使う。痩せているのに。たまたまエレベーターに乗り合わせると、できるだけ私から離れたところに体を寄せていく。あからさまに。
 私の異動が決まったのも、杉下課長の猛プッシュがあったからだと、ずっと希望していた部署の部長から聞いた。私の仕事ぶりを評価してくれていること自体は嬉しいことだけれど、私を追い出したくて仕方なかったのではないかと疑心暗鬼になってしまう。
 私の異動のための送迎会でも、そうだ。課長と話したくても、必ず誰かと話していて、私が近づいて行っても、するりとどこかへ逃げてしまう。とても、上手に。

 我慢の限界が近づいてきている。

 嫌われるようなことを言った覚えも、した覚えもない。エレベーター内での会話は、とても楽しかった。杉下課長だって、あんなに笑っていたのに。
 思い出すだけで、涙が出そうになる。
 嫌われているなら、別にそれでもいい。
 でも、それが、改善できることなら?
 直せることなら?
 自分を律することができるなら、頑張ることだって、できるはずなのに。

 好きな人に、理由もわからず避けられて、平気でいられるほど、私は器用じゃないのだ。

◆◇◆◇◆

 その日は、久々に休日出勤をしていた。私服でもよい。職場にはあまり相応しくないワンピースを着て、誰もいないオフィスで、電話番をするだけ。トラブルがあれば対応しなければならないけど、それもそう多くはない。
 さて、昼食でも食べますか、と階下へ行こうとしてエレベーターを待っていると、チンと軽い音と共に開いたドアの向こうに、同じく私服姿の、杉下課長が、いた。

「あ、課長、お疲れ様です」
「え、なっ、倉っ、沢」

 いやいやいやいや、そこは「閉」を連打する場面じゃないでしょ。
 ドアが閉じる前にするりと体を割り込ませ、顔に「絶望」と書いてあるかのような杉下課長と対面する。

「お久しぶりです。お元気でしたか」
「あ、うん、元気、元気」

 杉下課長の額に汗。まぁ、節電のために冷房切ってありますからね、休日は。初夏の今日は、ちょっと暑いかもしれませんね。
 あなたは嫌いな私と遭遇して冷や汗をかいているのかもしれませんが、私は普通に接しますよ。

「課長も休日出勤ですか?」
「え、あ、仕事じゃなくて、荷物を、整理しに」
「えっ?」

 杉下課長は、壁にぴったり身を寄せて、私から遠ざかっている。本当に、何に怯えているのか、さっぱりわからない。
 そんなに、私のことが、嫌いですか?

「荷物を整理って、どういうことですか?」
「内辞があって……来月から、その、本社へ異動になる」
「栄転ですか? おめでとうございます」
「あ、うん、ありがとう」

 おめでとうございます、は本心。お世話になった人が出世するのは嬉しい。
 でも、寂しくなりますね、とか、ようやく私から離れられますね、とか、も本心。
 悔しいけれど、私は、あなたのことが好きなんです。
 だから、苦しいんです。
 気づいてくださいよ、馬鹿。

「あれっ?」
「って、うわっ!」

 エレベーターのライトが消えた。音も消えた。
 しん、と静まり返ったこの状況は、身に覚えがある。

「まさか、また?」

 閉じ込められた?
 杉下課長が荷物の整理中に見つけた小さな懐中電灯を持っていたので、小さな明かりを頼りに緊急ボタンを押す。
 応答はない。
 仕方ないので、貼られたシールの緊急連絡先に電話をする。こういうときのためにエレベーターに乗るときは、絶対にスマートフォンを持つようになった。通報も二度目ともなると、慣れたものだ。

「課長、どうやらこの辺一帯が停電しているみたいです。復旧したら、動くようになるかと。一応、今から確認に来てくれるみたいですが、他も回らなければならないので、時間はかかるかもしれません、とのことです」
「わかった」

 杉下課長とまた二人きりで閉じ込められた。課長は早々に床に座っている。前回は立ったままでしんどかったから。
 私もそばに座ろうとすると、課長はさらに体を捻って壁に引っつく。

「あの、課長」
「うん?」
「杉下課長は、なんで私を避けるんですか?」

 避けていないとは言わせない。めちゃくちゃ避けているじゃないですか。

「いや、これは、あの、その」
「嫌いなら嫌いで構いませんから、体ごと避けるのは、できるだけやめてほしいです。結構傷つきます」
「……すまない。だが、どうしても、倉沢に近づいてもらいたくなくて……でも、嫌いだというわけでは、ないんだ」

 嫌いではないのに近づくな、と言われましても。ねえ。さっぱり意味がわからない。

「近づいたら駄目なんですか?」
「わ、わ、わ、っ! 来るな、倉沢!」
「なぜ?」
「お願いだから……来ないでくれ!」
「どうして?」
「駄目だ、頼むからっ!」

 両手を突っ張るようにして、杉下課長は私を拒絶する。強く、拒絶する。
 悲しくて、悲しくて、たまらない。
 私はあなたのことがただ好きなだけなのに。
 突っ張られた両手に、そっと触れる。包み込むように、優しく。
 途端に、杉下課長の体が、びくりと跳ねた。

「っ、あっ!」

 艶のある声に、たぶん、どちらも驚いた。
 小さな懐中電灯でよかった。私の顔は、真っ赤だ。見られたくはない。

「杉下、課長?」
「倉沢……お前、なんで」

 へたりこんだ杉下課長と視線が絡む。先に視線を外したのは、課長だ。私の手を振りほどくこともせず、ただ呟く。

「駄目なんだ……お前といると」

 いや、私と課長、付き合ってすらいないのに、その台詞はおかしくないですか?

「……んだよ」
「え?」
「倉沢、俺は、お前がそばにいると――」

 杉下課長は、泣きそうな顔で言い放った。

「お前の匂いを嗅ぐだけで、勃つんだよっ!」

 それは、仕事が早く、部下からの信頼も厚い杉下課長が、ただの変態に成り下がった瞬間だった。

◆◇◆◇◆

「た、勃つ……?」
「勃つ。見事なくらいに勃つ。自覚ないのか? こんなにいい匂いなのに」
「いい、匂い?」

 杉下課長の言っている意味がわからない。私、香水も何もつけていません、よ?

「こういう密室だと濃度が濃すぎて……自制ができるかどうか、わからないんだ。だから、極力エレベーターは避けていたのに」
「あの、意味がよくわからないのですが」

 杉下課長は、泣きそうな顔で私を見上げる。

「勃つんだ……そばにいるだけで、近づくだけで、仕事中とか関係なく」
「は、はあ……え、今も、ですか?」
「……」

 無言の肯定。
 課長はようやく私の手をほどこうとする。けれど、逃がさない。この機会を逃すつもりはない。

「杉下課長。勃っているということは、私に欲情してくれていると解釈してもよろしいですか?」
「……」
「課長?」
「……している」

 唇を噛みしめて、課長は肯定した。
 杉下課長、すみません。
 私はそれを「同意」と受け取ります。

「匂いだけで?」
「匂いだけで」
「今、一番したいことは?」
「……倉沢を抱きしめて、匂いを嗅いで、熱を、冷まさないと……あぁ、もう、いっそ――倉沢、いっそ、俺を殺してくれ!」

 杉下課長がこんなふうに感情を顕にすることは珍しい。入社してから一度だって、私は見たことがない。
 私が原因でそんなふうになってくれるなら、なんて嬉しいことか。なんて幸せなことか。

「嫌ですよ」
「倉沢っ」
「もう逃げないでください、課長。私を避けないでください」

 縋るような目で私を見つめているだけの課長は、気づいているだろうか。既に、抱き合えるほどの距離にいることを。

「だって、課長。私も――」

 そっと頬に触れて。びくりと震える体の、足の間に体を割り入れて。

「あなたに欲情しているんです」

 私は課長に、触れるだけのキスを落とした。

◆◇◆◇◆

 キスはただの引鉄でしかない。
 課長の首に抱きついて、課長が私の背中に手を回して、抱き合いながら唇を食む。
 課長の唇は少し薄い。休日だから剃っていないのか、髭がちくちく当たる。次からちゃんと剃ってもらわないと。
 唇を少し開けると、課長の舌が当然のように挿入ってくる。そして、私もそれを当然のように受け入れる。
 課長は今日もファンタを飲んだのか、めちゃくちゃ甘い。炭酸は太るとあれだけ注意したのに。けど、課長との甘ったるいキスは、嫌じゃない。

「倉沢っ」
「はい」
「駄目だ、我慢できない。責任は俺が取るから、もう――」

 いいか?
 目が聞いてくる。
 いいですよ、と目で応じる。
 手早くワンピースの下からショーツを抜き取って、課長の太ももの上に乗る。脱ぎかけのトランクスの上に頭を出した熱に、体を沈み込ませる。
 愛撫は必要ないくらい濡れていたし、課長のものも滾っている。ただ、早く繋がりたい一心で、割れ目に肉棒を宛てがう。

「っ、は……」

 声が漏れる。
 熱い。太い。硬い。痛い。なんて、幸せ。

「大丈夫?」
「はい、大丈夫です……っ、ん、あっ」

 課長とぎゅうと抱きしめ合って、キスをする。甘い舌を吸い、唾液を飲む。
 課長の熱は私の膣内をゆっくりと侵入してきて、奥へ奥へと進む。圧迫感がものすごい。ここで繋がっているのだ、と主張する。
 課長は私の首元に顔を埋め、すんすんと鼻を鳴らす。そして、甘い溜め息をこぼす。何度も、何度も。何度も。……いや、ちょっと嗅ぎすぎ。恥ずかしい。

「気持ちい……課長の、気持ちいいです」
「倉沢の中も、気持ちいい……動いたらすぐ出る。参ったな。動きたいのに動けない」
「いいですよ。すぐイッても。私がぜんぶ、受け止めますから」

 耳元で囁き合う。舌を絡ませ合う。それだけで、脳が快感に痺れ、下腹部が疼く。この真っ暗な密室で、甘美で官能的な行いに、ただ、没頭したい。
 対面座位のままゆっくり腰を動かすと、課長がぎゅうと強く私の体をかき抱く。そうされると、密着感が増して嬉しいけど、腰が動かせない。んー、動かせませんよ、課長。

「倉沢、駄目だ、動くな」
「嫌です。んっ、これは、課長への、罰、なんです、っ」
「あぁ、倉沢っ、嫌だ、まだ」

 まだ? まだ、イキたくない?
 課長からそんな言葉が聞けるなら、何度でも繋がってあげるのに。
 私から逃げ続けた、罰。
 私を避け続けたゆえの、お仕置き。
 最初のこんな浅い繋がりで、果ててしまえばいい。
 細い懐中電灯の光の中、課長と私の淫らな息遣いと、お互いの秘部が擦れる卑猥な音だけが響く。

「っ、くら……ああっ」

 ぐっと腰を掴まれる。杉下課長が自分から腰を動かして、自らを絶頂へと押しやっていく。

「あっ、ん、は、んんっ」
「くらさ……理沙っ!」
「っ、あ、かちょ……」

 ずるい。
 私の名前を呼びながら果てるなんて、ずるい。
 目を閉じたまま、短く吐息を漏らして、課長は私を抱きしめる。気持ちよさそうで、よかった。
 頭を抱いて髪を撫でながら、課長の熱が落ち着くのを待つ。待つ。待つ……。

「……課長」
「……すまない」
「いや、謝罪は聞きません。ただ」
「わかっている。百二十四回だ」
「え?」

 何の数字? この状態と、どんな関係が?

「この二ヶ月近くで、倉沢を想って果てた回数が、百二十四回なんだ」
「えー、と……おかずにしていただいて、ありがとうございます、っ、ん」

 課長は小刻みに腰を動かす。

「一度こうなったら、二回以上出さないと、おさまらない。あの、エレベーター閉じ込め事件から、毎日こうだ。倉沢の匂いを思い出すたびに、この有様だ。俺はもう三十二だぞ? ハタチの頃と違うんだ。五回出してもおさまらなかったときの恐怖が、倉沢、お前にわかるか?」
「だから、まだ、勃っているんですね……あ、ん、だから、近づかないようにしていたんですね」

 私の膣内で、杉下課長の熱はまだおさまらず、硬くて太いまま。課長が腰を動かしているということは、まだ快楽を求めているということだ。
 会社でこんな状態になってしまったら――絶望しかないだろう。確かに、原因がわかっているなら、避けようとするはずだ。

「でも、傷つき、ん、ました」
「本当にすまない。でも、勃ってしまうんだ。社内で倉沢の顔を見るたびに、欲情してしまって、汚したくて仕方なくなる。倉沢のその匂いも、駄目だ。俺をおかしくする」

 ぐっと体重をかけられて、床に倒れる。床が冷たいだとか、挿れたまま二回目なんて初めてだとか、些末な問題だ。
 もっと深く。
 もっと繋がっていたい。
 もっと、課長が欲しい。
 ただ、それだけの望みしかない。

「奥まで、いいか?」
「っ、ん、はいっ」

 腰を打ちつけられるたび、深い角度で奥に当たる。子宮口を擦られると、痺れるような気持ちよさが体を駆け巡る。
 課長の一度目の精によって、私の膣内はドロドロになってしまっている。ぐちゅぐちゅと掻き回されて、もっととろけてしまいたくなる。

「かちょ、きもち、い……ああっ」
「締めるな、倉沢」
「や、無理っ、ですっ」

 薄暗い密室は、二人の熱と匂いがむせかえるほどに充満している。
 課長にとって、私の匂いも、こんな匂いなのだろうか。愛液と精液が混ざり合った卑猥な匂いを振り撒いている自覚はないけれど、もしそうなら、由々しき事実だ。
 けれど、同僚の男性たちは杉下課長みたいに反応しないから、課長だけが特別なのだろう。私の匂いだけが、薬のように課長の下半身を刺激するなら、嬉しい。
 嬉しい。嬉しいです。

「あ、っ、理沙……受け止めて」

 課長の律動が激しくなって、やがて、緩やかになる。短く甘い吐息。落ちてくる汗。辛そうな、嬉しそうな、恍惚とした課長の表情。
 気持ちよかったですか、課長?

「おさまりそうですか?」
「んー、無理。倉沢の中が良すぎる」
「……それ、嬉しいですけど、恥ずかしいです」

 挿入して三回目なんて、未知の領域すぎて、どうなってしまうかわからない。
 閉じ込められたエレベーターの中でこんなことをしているという背徳感もある。早く助けてほしいような、まだ助けられなくてもいいような、不思議な感情。

「っ、と……電源入った、か?」
「あ、ほんとだ。停電回復したんですかね? 出られますかねぇ?」

 エレベーターに電気が戻る。さすがにこのままここにいるのはまずい。
 課長は躊躇することなく、手早く私の中から自分の熱を取り去った。引き抜かれる瞬間、どろりと課長の精が一緒に出てくる気配がある。
 あぁ、終わってしまった……。
 熱がなくなっただけで、こんなに寂しく、悲しくなるのか。
 既に服を整えた杉下課長は、落ちていたショーツを私に手渡してくれる。
 そして、しょぼくれている私の頭をぽんぽんと軽く叩いて微笑みかけてくれる。

「倉沢、今日は何時に上がれる? 明日は休みか?」
「三時……十五時です。明日は休みです」
「じゃあ、ホテル取って待ってる。服もいるだろ。買っておくから。サイズ教えて」
「えっ?」
「あと、指のサイズも」
「はっ?」

 杉下課長はボタンを押して、エレベーターが動くのを確認して。私へと向き直る。

「責任は俺が取る、って言っただろ。本社の異動、妻を連れていけば、結構いい社宅に入れるんだ」

 まぁ、それだけが理由じゃないけど、と課長は笑って。

「結婚してくれ、理沙。お前がいたら俺の体はもたないけど、心はこんなに満たされる。愛しているんだ」

 あぁ、なんて。
 なんて、幸せな――。

「答えは?」
「……よろしく、お願いいたします」
「うん、よし」

 開いたエレベーターのドアの先に誰もいないことを確認したあと、ショーツを穿き終えた私にキスをして、課長は微笑んだ。

「ファブリーズをして、うちわで扇いで、匂いを消すぞ」
「あ、はい……消えますかね?」
「知らん」

 そして、課長は私をぎゅうと抱きしめて、下腹部の、硬くて太いままの欲を私の臀部に押しつける。
 ついでに、髪の匂いを嗅がれる。……好きですね、それ。

「まだ勃っているし、抱き足りないから、続きはまた仕事の後で、な」
「……は、い」
「理沙、愛してる」
「ありがとう、ございます。私も、大好きです」

 下腹部が甘く疼く。
 どろりと課長の精が出てくる感覚にぞくぞくしながら、そんな甘い言葉だけで感じてしまう私も、やっぱり変態なのではないかと思うのだ。

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