美女と野獣(2020)

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 侯爵は狩りの途中で足を滑らせて谷に落ちた。体も手足もそこかしこに打ち付けながら転がった。眼前に大きな岩が見えたときには死を覚悟した。しかし、侯爵は死ななかった。谷底で奇妙な獣に助けられたのだ。
 巨大な奇妙な獣の献身的な治療のおかげで、侯爵は数日後には動けるまでに回復した。感謝した侯爵は奇妙な獣に褒美をやろうと考える。「何が欲しい?」と尋ねると、奇妙な獣は「妻が欲しい」と消え入りそうな声で所望した。
 幸いなことに、侯爵の娘は四人もいる。帰宅した侯爵が娘たちに事情を説明し「獣の妻になりたいものは?」と尋ねると、末娘が元気よく手を挙げた。

「わたくしがお嫁に参ります!」

 侯爵の四番目の娘は、馬や牛、鹿といった獣をこよなく愛する不思議な性質を持っていた。侯爵も四女が適任であろうと、他の三人の娘の顔を見て頷いた。四女の姉たちは、皆、「どうぞあの子をやってください」とばかりの視線を侯爵に送っていたのだ。
 かくして、侯爵の末娘と、奇妙な獣の結婚が決まった。

 娘の夫は、体が獅子のような、頭が狼のような、尾は馬のような、そんな奇妙な獣だ。四肢は地についているが、知性があり、人語も理解して話す。鋭い爪があるため文字を書くことはできないが、手紙を出す相手もいないので支障はないと奇妙な獣は笑った。
 獣好きの娘は歓喜した。一目見た瞬間に、夫に恋をした。「旦那様、旦那様」と熱心に世話を焼き、朝から晩まで夫に楽しそうに話しかける。片時も離れたくないとそばに付き従う。
 奇妙な獣も、妻のために獣を狩り、川魚を獲り、彼女の取り留めのない長話にも文句一つ言わずに付き合う。朝晩の入浴、散歩、薔薇の剪定、二人はいつも一緒だった。
 何とも穏やかで幸せな結婚生活だった。
 奇妙な獣が「実は私は魔法でこのような姿に変えられている、遠方の国の王子なのだ」と打ち明けるまでは。

「だから、きみが真に私を愛してくれるのならば、元の姿に戻る方法を」
「なりません!」

 妻は耳を塞ぎ、夫の言葉を遮る。奇妙な獣は、彼女の行動が不思議でならない。

「きみが愛してくれるのならば、元の姿に戻ることが」
「聞きたくありません!」
「だから、元の姿に」
「ダメです!」

 妻は涙を浮かべて夫を睨む。奇妙な獣は、妻が喜んでくれるものと思っていたため、かなり面食らっている。
 何しろ、この姿になるまではかなりの美丈夫だったのだ。街を歩けば誰もが振り向くほどの美貌の持ち主だったのだ。妻も、こんな恐ろしい獣の姿の夫より、そんな美しい王子の姿の夫のほうがいいだろうと思ったのだ。
 しかし、妻は夫の考えを強く拒絶した。
 妻に嫌われたのかと肩を落とした奇妙な獣だったが、彼女は夫の大きな体にぎゅうとしがみついた。嫌われてはいないようだ。

「元の姿に戻るなんて、いけません!」
「しかし、妻よ。私の爪は鋭くて、きみを抱きしめることすら叶わない」
「わたくしは構いません! わたくしが抱きしめて差し上げます!」

 妻に抱きしめられ、奇妙な獣は「なるほど」と唸る。悪くはない気分である。

「このしわがれた声、尖った牙をなくしたいとは思わないのかい?」
「全く思いません! 旦那様の声は誰より力強く、美しいんですもの。牙はピカピカに磨かれて宝石のよう。わたくしは今の姿の旦那様が大好きです」

 奇妙な獣はくすぐったくて仕方ない。褒められると心も体もムズムズするものだ。

「私は毛むくじゃらだ」
「ええ、とても綺麗な毛並みです」
「臭いだろう」
「毎日石鹸のいい匂いがします」

 毎朝毎晩、体を洗って、ブラシで梳かしていますもの、と妻は胸を張る。奇妙な獣は、自分よりもずっと奇妙な考え方の妻を見下ろす。

「……きみは私が怖くないのかい?」

 妻は目をパチパチと瞬かせ、「怖くありません」と即答した。その瞳に嘘は見当たらない。

「旦那様はわたくしの理想とする旦那様そのものです。美しく、気高く、強く、聡い。何より、ふわふわで、つやつやで、ピカピカで、暖かい。わたくしは、今の姿の旦那様を愛しているのです」
「……愛」

 奇妙な獣は、大変困ってしまった。
 妻が自分の今の姿をそんなに愛しているとは思わなかったのだ。元の姿に戻りたくとも、妻が元の王子の姿を愛してくれるとは限らないのだと知った。

「……きみをもっと優しく抱きしめたいのだが」
「旦那様は今でも十分優しく抱きしめてくださっていますよ?」
「しかし、きみの柔らかな肌を、どうしても爪や舌が引っ掻いてしまう。白い肌に傷をつけてしまう。王子の姿に戻ることができれば、もっと優しく触れることが……」
「い・や・で・す! 元の姿に戻ってしまったら、ぜんぶ変わってしまうのでしょう? そんなの嫌です! 絶対、嫌です!」

 妻は断固として拒否をする構えだ。奇妙な獣は困り果ててしまった。

「ただ一度だけ、唇にキスをするだけでいいんだ」
「絶対、お断りいたします!!」

 奇妙な獣は、仕方なく妻の言葉に従うことにした。無理強いをして嫌われたくなかったのだ。
 いずれ、子どもが欲しくなったときにでも。
 いずれ、街に降りたくなったときにでも。
 いずれ、こんな貧乏な暮らしに飽きたときにでも。
 いずれ、里帰りをしたくなったときにでも。
 奇妙な獣は、「いずれ」を待った。妻の心変わりを待った。しかし、妻は夫を愛し、朝から晩までそばにいて、額や鼻先や頬にキスはしてくれるものの、決して唇へのキスはしてくれなかったのだ。決して。

 困り果てた奇妙な獣は、「しばらく留守にする」と妻に伝えておいて、何日も走り続けて、自分に魔法をかけた魔女に会いに行った。
 魔女は自分がかけた魔法で奇妙な獣の姿になっている王子を一目見て、「魔法が解けかかっているじゃないか」と驚いた。

「そんな醜い姿のお前を、よく愛してくれる女がいたものだね」
「ああ、素晴らしい妻だよ。しかし、私が元の姿に戻ることを、妻はとても嫌がるんだ。無理やりキスはさせたくない。どうすればいいのだろう? 私はこんなにも、妻に触れたいというのに」

 魔女はケラケラと笑う。

「自業自得じゃないか。自分の美貌に惹かれる女たちを手酷くふって、その恨みからそんな獣の姿になったというのに、心底愛した女は、お前の今の外見を愛して、元の姿に戻したくない。ハハハ、面白い。いい気味だね」

 奇妙な獣はがっくりとうなだれる。
 妻が自分の内面を愛してくれたなら、いつか元の姿に戻ることができるのではないか。そんな淡い期待も消えてしまった。妻は奇妙な獣の外見を愛している。心底愛している。それは間違いない。
 魔女の言う通り、因果なのだろう。奇妙な獣は、元の姿に戻ることを諦めた。それが、報いなのだと思って。

 また何日もかけて邸に戻ると、妻の姿が見当たらない。奇妙な獣は妻の名を呼び、邸の中をくまなく探したが見つからない。
 奇妙な獣は鼻を鳴らし、薄くなりつつある妻の匂いを辿る。広い庭をさまよい歩き、森のほうへと続く匂いに、奇妙な獣は冷や汗をかく。森には自分以外にも獣がいる。自分とは違い、知能が低く、人語を解さない獣たちだ。柔らかい肉を爪で切り裂き、牙を立てることをいとわない獣たちだ。
 奇妙な獣は駆け出す。悠長にしている場合ではないのだと、四肢を素早く動かし、妻のもとへと走っていく。

 あたりに漂う血の臭いに、奇妙な獣は、邸を留守にするのではなかったと後悔する。元の姿に戻れないくらい、何だ。妻を失うほうがよほどつらい。現に、今は四肢がどれほど傷だらけになろうとも、心のほうが痛くてたまらないのだ。

「あら、旦那様、お帰りなさいませ」

 泉のほとりで、血塗れの妻は笑顔を見せた。傍らには黒く動くものがある。奇妙な獣は、あたりに漂うのが妻の血ではないことに、ようやく気づく。それだけ、冷静さを欠いていた。

「妻よ、血が」
「ええ。最近仲良くなった子が産気づいてしまって、そのお手伝いをしていたものですから」
「あぁ、その、怪我はないか?」
「ええ、もちろん。ねぇ、見て。とても可愛らしいのよ」

 黒く動くものは犬のような狼のような猫のような獣だ。小さなものが母の乳を求めて鳴いている。
 奇妙な獣は妻の無事に安堵した。鼻先を妻の頬に擦りつけ、その柔らかさと暖かさに嘆息した。

「無事で良かった……」
「あら。森の主の妻を手にかけるほど愚かな獣はこのあたりには棲んでいませんよ。ご存知ありませんでした?」

 妻の明るい声に、夫は苦笑する。

「きみを失いたくないのだと、はっきりわかったよ。きみが私の外見だけを愛しているのだとしても」
「まあ! それは聞き捨てなりませんわね。わたくしが外見だけで旦那様を愛していると、本当に思っていらっしゃるの?」

 妻から頬をむぎゅと押し潰されて、奇妙な獣は一瞬面食らう。「こんなにも深い愛が伝わっていないだなんて、わたくしの旦那様はどれほど鈍感なのでしょう」と少しからかうような声色と穏やかな笑顔に、「なるほど、誤解であったか」と奇妙な獣は小さく笑う。魔女にしてやられた、と。

「今、とてもきみにキスをしたい気分だよ」
「お断りいたします」
「ねぇ、一度でいいから」
「いけません」
「一回きりでいいから」
「ダメです」

 奇妙な獣は肩を落として溜め息をつく。落ち込む夫に、妻は明るく声をかける。

「わたくしは旦那様の外見も内面も愛しております。それでよいではありませんか」

 夫の狼のような額を撫で、鼻先にキスをして、妻は満面の笑みを浮かべた。

「わたくしは、今、とても幸せなんですもの」

 奇妙な獣は、奇妙な獣の姿のまま、奇妙な考えの妻と生きることになる。しかし、それでも、妻はとても幸福で、そんな妻を愛しく思う夫もまた、幸福であった。
 ただ、キスをしたがる夫と、それを阻止したがる妻の攻防戦は、生涯続くことになったのだが。
 夫婦は奇妙な獣と奇妙な妻のまま、末永く仲良く暮らしたのだった。

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