ほのぼの(2009)

◆◇◆◇◆

「あ、あの、大丈夫ですか?」
「……たぶん、大丈夫、ではないと、思います」

 切れ切れに、一メートル下の側溝から声が聞こえる。
 月の明るい夜、仕事帰りの僕の前をふらふらと歩いていた女の人が、いきなり消えたのだ。超能力者ではあるまいしと慌てて駆け寄って覗き込むと、乾いた溝の中、彼女は突っ伏したまま身動き一つしていなかった。悲鳴すらも聞こえなかった。

 動揺した僕の声はうわずっていただろう。
 それにしても、溝に落っこちた人に「大丈夫ですか?」はない。明らかに大丈夫ではないのだから。
 でも、まぁ、意識があってよかった。

「動けますか?」
「うーん……動け、ません、ね」

 彼女は、起き上がることをせず、手だけをばたばたさせている。僕は彼女の顔から少し離れたところに落ちているものを見つける。
 その瞬間に、僕は、溝に降り立っていた。スーツやダウンジャケットが汚れることを、気にしてはいられない。

「これですか」
「あぁ、すみません」

 上半身を起こした女の人に、メガネを手渡す。汚れてはいたけれど、割れたり傷ついたり曲がったりはしていないようだ。
 ついでに、散乱していたバッグの中身も拾っていく。財布に手帳に口紅にビロードの小箱、汚れをはたきながら、小さなバッグに放り込んでいく。

 メガネをかけた彼女は、ようやく自分の身に起こったことを理解したようだった。深々と真っ白なため息を吐き出した。

「あぁ、これ、ダメだ。足が全然動かない」
「骨折しているかもしれませんね。無理に動かさないほうがいいですよ」
「歩いて帰りたかったのになぁ」
「歩けないでしょう。ご自宅は近くですか? どなたか連絡がつけられますか? 救急車、呼びましょうか?」

 バッグの中に、携帯電話やスマートフォンはなかった。二十代後半かと思われる、深津絵里に似た彼女は、少し思案したあと、うなずいた。

「救急車を、お願いします」

 一一九番に僕のスマホで電話をし、間宮里穂による単独事故であることと、骨折しているかもしれないこと、事故を起こした場所などを伝える。
 おそらく、ものの五分で到着するだろう。

 彼女はうつ伏せのまま、上半身だけを起こした状態だ。ちょっと辛そうなその体勢。白い息で手を温めながら、僕と救急隊員のやりとりを聞いていた。

「痛くはないですか?」
「痛いです」

 ふと、息を吹きかけていた手に赤いものが見えた。転倒したときに擦ったのだろう、血がにじんでいる。僕はカバンからハンカチを取り出して彼女の手を取る。

「あぁ、すみません、ありがとうございます」
「どうして、落ちたんですか?」

 ふらふらしていたといっても、酒臭いわけではない。間宮さんは、神妙な表情で、僕を見上げた。

「見えたんです」
「え?」
「あの、ほら、見えると死ぬという、例の星が」
「……死兆星?」

 間宮さんはうなずく。星を見ながら歩いていたのだと、彼女は言う。
 だから、酔っ払いのようにふらふらしていたのか。

「だから、あぁ、私、もう死んでしまうのだと思って、悲しくなって。そしたら、足を踏み外して、落っこちて。ここからだともうその星は見えないですけど、たぶん近いうちに死んでしまうんですよ、私」
「生きているじゃないですか」
「それはたまたまそばにあなたがいたからでしょう。あなたがいなかったら、きっと凍死していましたよ。今日、携帯を壊してしまって誰とも連絡がつけられないし、このあたりは人通りが少なくて街灯もないから誰かに気づいてもらえる保証はないし」

 間宮さんは、泣き出しそうな顔で僕を見上げている。なんだろう、責められている気分になる。

「でも、あなたは死ななかったじゃないですか」
「でも、死ぬかもしれないじゃないですか」
「まぁ、人はいつかは、死にますよ」
「……そうですけど」

 むすっとしている間宮さんを見ると、助けなければよかったのだろうかとさえ思える。そんなことは、絶対に、ないのに。

「今日は踏んだり蹴ったりですよ。恋人には振られるし、携帯はトイレに落としてしまうし、死兆星は見えるし、溝に落ちて骨折するし。もう、いっそこのまま死んでしまえばよかったのに」
「なに、言っているんですか」
「愚痴です。聞き流してください」

 あぁ、聞いてほしいんだなと思って、僕は間宮さんを見つめる。

「今日こんなにひどいことがいっぱい起きたのは、たぶん、神様の気まぐれですよ」
「そうでしょうね」
「私が死ねなかったのも、きっと神様の気まぐれなんですよ。だから、きっと、神様の気まぐれで、私はそのうち死ぬんですよ」

 踏んだり蹴ったりの今日の出来事が彼女をこんなにもネガティブにさせているのなら、なんて悲しいことだろう。

「だから、私、死んだら、神様に抗議しに行きます。どうして今日、死なせてくれなかったのだ、って。神様が謝るまで、絶対に許してやらないんです。ごめんなさいを百回言わせます。そうしたら、許します」

 あぁ、彼女は自分の境遇を嘆いているわけではなく、自分の境遇に憤っているのか。
 彼女からすごい剣幕で怒られている神様を想像して、なんておかしな状況なんだと、笑いそうになる。

 救急車のサイレンの音が遠くから聞こえてくる。まさに救いの神だ。
 このおかしな状況から一番救われたいのは、きっと、僕だ。
 僕は溝から道路にのぼり、手を振って救急車を誘導する。

「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃありません」

 不機嫌な間宮さんは、助けに来てくれた救急隊員にさえ憎まれ口をたたく。救急隊員はそれを軽く聞き流し、「痛い」と顔をしかめる間宮さんの足の状態を確認している。
 そうして、慣れた手つきで彼女の体の下に担架を差し込み、体を固定して持ち上げた。

 あぁ、神輿みたいだと、不謹慎にも僕は思ってしまった。
 二人の救急隊員に持ち上げられた、間宮さん、あなたが、神様みたいですよ。
 そう、とても気まぐれな。

「あぁ、そうですね、僕が一一九番しました。渡辺怜です。はい。星を見上げながら歩いていて溝に落ちたみたいです」

 間宮さんが叫んだのは、彼女が落下したときの状況を救急隊員に説明していたときだった。

「あ、ねえ、ほら、死兆星!」

 神様みたいに持ち上げられて運ばれる担架から、彼女は南の空を指差した。
 一番星を見つけた子どものような笑顔で、彼女は僕を見る。

「ほら、光ってる!」

 きっと、僕にも救急隊員にも、死兆星は見えなかったはずだ。
 無邪気に笑う間宮さんが救急車に収納されていく姿を見ながら、僕は一言、救急隊員に告げた。

「間宮さんに、付き添います」

 彼女を一人にはしておけない。

 冬の南の空、オリオン座を指差して死兆星だと言う気まぐれな神様を、僕は、どうしようもなく気に入ってしまった。

 それが恋の始まりだとするなら、きっと、悪くはない。
 そして、彼女が生き続けるところを見ることができるのならば、もっと、悪くない。

 ビロードの小箱からこぼれおちた、彼女にはもう必要のないもの――それを足もとから拾い上げ、僕はポケットにしまった。
 そして、間宮さんがきょとんとしている救急車へと乗り込む。

 僕はきっと神様にはなれないけれど、彼女に百回謝ってから、冬の北の空に向かってこれを捨てさせてもらおう。

 二人一緒ならば、きっと、北斗七星の下で一瞬輝くそれも、笑い話となるだろうから。

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