二度読み推奨(2004)

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 空っぽになった部屋を見て、もうここにあなたはいないのだと改めて思う。
 遠くから聞こえてくる歌は、あなたと出会った日に聞いた歌と同じものだった。

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 子どもたちの歌が聞こえていた。寂しげな歌だなというのが、あの歌の第一印象だ。
 その日、あたしは浩介と一緒に暮らすようになったから、歌のこともよく覚えている。

「一緒に暮らそうか」と微笑んだ浩介は、笑っちゃうくらいスーツが似合わなくて、泣きたくなるくらい優しかった。
 浩介に声をかけられるまで、独りぼっちだったあたし。
 寒くはなかったけど、浩介の腕の中はもっとずっとあたたかくて。
 気がつくと、あたしは浩介にすがりついていた。
 孤独という闇の中で、光を差し伸べてくれたのが浩介だったのだ。

 浩介との生活はとても楽しかった。浩介は美味しいご飯を食べさせてくれるし、たくさんの玩具で遊んでくれる。
 浩介が仕事へ行っていても寂しくはなかった。仕事から帰ってきた彼は、そのくたくたの体で、一番最初にあたしを抱きしめてくれるから。
「ただいま、サクラ。お利口だったね」と耳元でささやかれる甘美な響きは、いつだってあたしの体を優しく包んでくれた。
 これを、幸せと呼ばずになんと呼ぶのだろう。

 あたしはいつだって浩介のそばにいた。
 あたしは幸せだった。
 愛する浩介はいつもあたしだけを見てくれていたから。
 だから、この幸せはずっと続くのだと信じていた。

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 コウちゃんが住んでいたのは会社の独身寮だったから、「行ってみたい」と無理にお願いするわけにはいかなかった。
 彼のことが好きだったから、嫌われたくなかった。
 だから、付き合い始めて半年たったあの日、コウちゃんがはにかみながら「部屋に来る?」と聞いてくれたときの嬉しさを、どう表現すればいいのかわからない。
 私がものすごい勢いで頷いたものだから、コウちゃんは「キツツキみたいだ」と言って笑った。

 けれど、すぐに彼が半年も私を部屋へ招かなかった理由を知った。
「おいで、サクラ」とコウちゃんが呼んでも、その子は私をにらんでその場を動かなかった。
「ちゃんと躾けたつもりだったんだけど」と、申し訳なさそうにコウちゃんは笑ったのだけれど、私は本能的にすべてを悟っていた。

 目の前にある「嫉妬」という感情。
 それは、サクラちゃんが小さくても一人前の女性であることを示していた。

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 浩介があの女を連れてきたのは予想外のことだった。
 彼の愛情はあたしだけのものだと思っていたし、それはずっと続くものだと思っていたから。
 だから、他のことなんて構わずに、彼を独り占めしていられたのに。

 あの女が現れてから、あたしの苛立ちは抑えることができなくて、浩介にも彼女にも随分八つ当たりしてしまった。
 それが嫉妬というものだとは、あたしが一番よく知っていた。
 でも、抑えることができなかった。

 あたしは浩介が大好き。
 でも、浩介が好きなのは、あの女なのだ。
 悔しくて悔しくてたまらない。
 あたしが、一番浩介を愛しているのに、それが伝わらない。
 本当に、悔しい。

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 お土産を持っていっても、サクラちゃんは全く興味を示してくれなかった。
 当然のことだ。私が、サクラちゃんからコウちゃんを奪ったようなものだから。
 サクラちゃんにとって、コウちゃんが唯一の存在だってことはよくわかっていた。
 だからこそ、仲良くなりたかった。

 猫じゃらしも、ネズミの玩具も、高級な缶詰も、見向きもされない。
 少しくらい認めてくれてもいいじゃない、なんて思っているうちは、きっとダメなのだ。
 そんな気持ちを持っている間は、サクラちゃんはきっと、私を認めてくれないのだ。

「サクラが人間なんじゃないかって錯覚するときがあるよ。だって、サクラはとても人間らしい感情を持っているから」とコウちゃんが優しそうに微笑むの、サクラちゃんはきっと知らない。

 羨ましいな、と思った。
 私はサクラちゃんの友達になりたい。
 コウちゃんを取り合う恋敵ではなくて、コウちゃんを支え合う仲間に、なりたいんだ。

◆◇◆◇◆

 浩介はあの女とあたしの距離を見て、申し訳なさそうに笑みを浮かべているだけ。
 彼女は、相変わらずだ。あたしの神経を逆なでする。

 モノで釣ろうとしても無駄。
 エサ……もダメ。美味しいけど、ダメ。

 ネコだからってバカにしないで。
 あたしから浩介を奪ったあの女を、絶対に許さない。

◆◇◆◇◆

「最近、夜の間にサクラが人間になっている夢をよく見るんだ」とコウちゃんは楽しそうに報告してくる。
「だとするととてもきれいな女の子なんだろうね。サクラちゃん、毛並みがきれいだから」と私は笑いながら応じたのだけれど、内心少し心配だった。

 だって、コウちゃんの部屋で朝を迎えると、いつだって眠る前と部屋の様子が違う気がするのだ。
 棚に戻したコップの位置、歯ブラシの順番、コウちゃんの鍵の置き場所、たたんだタオルの順番……小物や台所用品の配置が少し変わっている気がする。
 本当に、小さな小さな違和感。
 けれどそれは、積み重なれば、「主張」に変わる。

 私には、それが、サクラちゃんの「浩介は渡さない」というサインだと思えてならない。

◆◇◆◇◆

 その日、「僕たち、結婚するんだ」と浩介は言った。
 隣には、微笑を浮かべたあの女。

「サクラにも祝福してほしい」と浩介。
「春から一緒に暮らし始めるの。サクラちゃんも一緒においで」とあの女が言った一言で、あたしの目からは大粒の涙がこぼれた。

 あたしは、負けたのだ。
 あたしの愛は、あの女に負けたのだ。

 初めて見せたあたしの涙に、彼女は少し驚いて、優しくあたしを撫でた。
 あの日、浩介から抱き上げられたときと同じくらい、その手はあたたかかった。
 悲しいくらい、優しかった。

 彼女があたしに触れたのは、それが最初で、最後だった。

◆◇◆◇◆

 トラックに積まれた家具と独身寮を交互に見て、コウちゃんは「独身生活ともお別れだな」と笑う。
 何年もここで過ごしたのだ。寂しいのかもしれない。

 あたたかな風に乗って歌声が聞こえてくる。
 近くの小学校から聞こえる、別れの歌の合唱。まだ卒業式本番じゃないから、何度も何度も歌い直しているのが微笑ましい。

 卒業、かぁ。
 私は、笑いながら、彼の右手に左手を重ねる。薬指の指輪にはまだ慣れないけれど、そのうち馴染んでいくのだろう。

「独身生活卒業おめでとう!」

 斜め上から向けられるコウちゃんの笑顔が、とても優しい。

「ありがとう。次は夫婦生活入学?」
「ふふ。夫婦一年生、よろしくね」

 何年先も、何十年先も、コウちゃんと手を取り合って笑い合いたい。
 夫婦生活は卒業しないように、気をつけなくちゃ。ね。

◆◇◆◇◆

「サクラ! 行くよ!」
 浩介に呼ばれてから、あたしはもう一度部屋を振り返る。

 空っぽの部屋。
 日差しが明るい窓の近く、あたしに笑みを向けている彼女。あんたはそこが好きだったわね。

「あんたともサヨナラね」

 返事はない。いつだってそう。
 彼女は何も言わない。ただ、笑っているだけ。

 この部屋に来た当初は驚いたけど、寝ている浩介の布団を直したり、部屋を掃除したり、物の位置を直したり、とにかく浩介やあたしに危害を加える気などないのだと知って安心した。

 窓際が彼女の定位置。
 今どこからか聞こえている歌が好きなのか、そこから見える景色が好きなのか、よく窓を開けていた。
 だから、浩介の仕事の書類が風に吹かれて床に落ちたのを、あの女に「サクラちゃん、いたずらしちゃダメよ」なんて濡れ衣を着せられて、あたしとあの女の仲がまた険悪になるのだ。
 でも。

「あんたのこと、あの女よりは好きだったわよ」

 あたしの言葉が、彼女に届いたとは思わない。
 あたしがギャーギャー喚くのも、叩くのも、彼女はいつだって笑顔で見つめているだけだったから。
 けど、彼女がとても幸せそうに笑うから、そんなのはどうだっていい。

 幽霊に対してこんな感情を抱いたのは、初めてだった。

「サヨナラ」

 そうして、あたしは浩介に抱きしめてもらうため、一度も振り返らずに部屋から駆け出した。

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 空っぽになった部屋を見て、もうここにあなたはいないのだと改めて思う。
 遠くから聞こえてくる歌は、あなたと出会った日に聞いた歌と同じものだった。

 わたしは、その歌しか知らない。

 寂しくはない。
 いつだって、別れのあとにはすばらしい出会いが待っていると、知っている。

 ――わたしも、サクラのこと、好きだったよ。

 さようなら、かわいい子猫さん。

 あなたと同じ名前の花は、今年はいつ、見られるだろうか。

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