ほんのりグロ(2004)

◆◇◆◇◆

「なぜ人を殺してはいけないのか。なぜだと思う?」

 背中越しに先輩の声が聞こえる。僕は風を受けながらペダルを踏みしめる。

「ハルは、なぜだと思う?」

 先輩はあまりに軽すぎて、声が聞こえないと、後ろにいないのではないかとさえ感じる。

「自分が殺されたらイヤだから?」
「別に、殺されたっていいって考える人はいる。その答えはただの個人の価値観だよ」

 あたたかい風が吹きつけてくる。春の匂いを多く含む風だ。嫌いではない。

「じゃあ、道徳観、ですか?」
「人を殺すことが悪いことだというの? その善悪は誰が決めたもの?」
「世間一般、つまりは社会ですか」
「果たして、社会が決めたことは絶対なのだろうか」
「世の中に絶対なんてものはないですよ。世界は移ろいますから」

 目の前を通過していく桜の花びら。学校には、なぜだかいつだってこの木が存在している。
 僕は坂の上の高校を視界の隅に捉え、静かに笑う。桜は、まだすべて散っているというわけではない。

「本能的なものなのでしょうか」
「人を殺してはいけないということが本能レベルで決められているのであれば、殺人が起きることもないだろうね」
「では、逆に、人を殺してもいいということが本能的に決められている、というのは?」
「うん、おもしろいね。でも、ハル。それは議題から外れてしまうよ」

 先輩が僕の名前を呼ぶ瞬間が好きだ。厭わしかった僕の名前でさえ、誇らしく思える。
 けれども、僕の名前だけは、この先一生好きにはなれないだろう。

「でも、先輩。きっと人間だけですよ、捕食以外の目的で同じ種族を殺すのは」
「そうか。ライオンもトラも、縄張り争いをすることやエサをめぐって争うことはあっても、殺したりはしないね。生き物が同じ種族を殺すときって、生きるためだったり、より強い遺伝子を残すためだったりするから」
「そうですよ。快楽で同種族を殺すのは、人間だけじゃないでしょうか」

 先輩は唸る。難しい議題を選んだことを後悔しているのか。
 先輩と僕は、学校までの三十分間、いつだってこんなことを話している。自転車の上の、不安定な議論。
 でも、机上の議論よりはずっとおもしろい。

「人が人を殺す理由は、別に快楽だけではないだろうね。正当防衛や事故だってありえる」
「でも、人を殺したという事実は変わりません。そういう場合は、法律が裁かないだけです」
「ハルは手厳しいなぁ」
「そうですか? 事実は事実ですよ。でも、僕は法律を軽視しているわけではないし、思いがけないところで人を殺してしまった人のことを責めたりはしませんよ」

 坂だからといって、ペダルを踏むのが苦痛というわけではない。この坂を登るのも、もう二年目。
 慣れてしまったというのもあるが、背後に先輩の存在があるというだけでペダルを踏む足が軽くなるのは当然のことなのだと思う。

「なぜ人を殺してはいけないんだろう」
「人を殺してはいけない、という概念そのものがおかしいということではないでしょうか」
「それは、殺人を肯定するということ?」
「人は人を殺してもいい、そういうことですよ」
「それだと、殺されてしまった人がかわいそうな気がする」
「では、先輩は、かわいそうだから人を殺してはいけない、と?」
「それはさっき出てきたね。個人の価値観ってやつだ」

 堂々巡りも、この不安定な議論の場においてはよくあること。僕たちはそれを悪いこととは考えない。
 緑色に色づき始めた桜の木の合間を縫うように、校内へと自転車を進める。
 議論の時間はそろそろ終わりだ。

「殺されてもいいと言う人間はいるでしょうけれど、だからといって、殺されてもいい人間なんて、この世にはいないですよ」
「なぜ?」
「遺された人たちが悲しみます」
「身寄りのない人が殺されたとしても?」
「少なくとも、一度でもメディアに出ると、そのメディアを通じて悲しむ人はいるでしょうね」
「そうか。殺人、だもんね」
「はい」

 いつもの場所に自転車を停める。
 ふわり、と桜の匂い。
 最後の力を振りしぼって散っていく。
 桜は咲いているものより、散っていくもののほうが美しいと言ったのは、誰だったか。
 先輩はいつものように、ちょこちょこと僕のあとを追ってくる。歩幅を調節するのは、僕の役目。

「ハル。ハルは、悲しいって感じる?」
「誰に向かってそれを言ってるんですか。知り合いが誰かに殺されたとしたら、悲しいですよ。それが、愛する人だったら、特に」
「……そう。でも、ハル、私は」
「先輩。そろそろ結論を出しましょうか。なぜ、人を殺してはいけないのか」

 僕は立ち止まる。先輩はきっと悲しそうな表情を浮かべているだろう。

 だから、僕は振り向かない。

◆◇◆◇◆

 血だらけになった研究室に、僕は一人たたずむ。僕の手に握られたナイフから、ポタポタとさらに滴り落ちる。

「ハル……」

 背後からの声。僕は、初めて振り返る。
 淡いピンク色をした先輩が、悲しげな表情をして立っていた。生前と何ら変わらない姿で。
 だから、僕は、微笑みを浮かべる。

「先輩。人は、殺しちゃいけないんです。新たな人殺しを作ってしまうから」

 先輩は、桜の下、静かに眠っていた。花びらが先輩を飾っていて、それはとても美しい光景だった。
 先輩が、生きてさえいれば。

 先輩の笑顔を奪ったのは、今、僕の足元に転がっているモノ。先輩が還ってこないのなら、これも仕方のないこと。

 彼は「なぜ人を殺してはいけないのか――この問いこそが社会の病みを反映しているのだ」と授業の中で説いていたが、僕の大事な人を奪っておいて、自分だけ生きたいだなんて、誰が許せるだろう。

 先輩は、泣きそうな表情のまま、ゆっくりと光の中に溶けていく。

「バカ春樹……」
「ねぇ、最期くらい、笑ってよ、桜先輩」

 開いた窓から入ってきた桜の花びらが、血の上に溜まっていく。赤とピンクの色合いが美しい。
 桜が完全に散ってしまう前で、よかった。復讐は、桜が咲いている間にしたかった。

 先輩は、僕の名前を好きだと言った。
 でも僕は、自分の名前を好きになれそうにない。
 たとえ、先輩の名前と同じ意を持つとしても、そこから生まれる狂気を、僕は許せそうにない。

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