死ネタ(2016)
◆◇◆◇◆
「もしもし、私、メリーさん。今、あなたの後ろにいるの」
恐怖で歪んだ人間の口から魂を抜き取って、裁判所へ連れていくのが私の仕事。
私は死神だけど、鎌は持たない。携帯電話が私の「鎌」――彼らの生死を分かつ道具だ。
「もしもし、私、メリーさん。今、畑野青果店にいるの」
たいてい最初は、電話の相手――対象者はいたずら電話だと思って相手にしてくれない。何度もかかってくる電話によって、私が近づいてくることを察知してから、恐怖する。
そして、電話に出てくれなくなる。
でも、私はその間にも対象者に近づいている。電話を拒否するのは無駄な抵抗以外の何物でもない。
人間は愚かだと思うけど、それが普通の反応だと知ってからは、普通の仕事風景だと思っている。
けれど、今回の対象者は違った。
『……メリーさん? 初めまして。僕は裕二。畑野青果店にいるの? リンゴはある?』
最初の電話で私に「初めまして」と言ってくれる人間は、私にとって初めてだった。
私は面食らいながら、目の前の畑野青果店の売り物を確認する。青いカゴに入れられたリンゴはあと一つ。
「リンゴは一つだけよ」
『それは残念。リンゴの名前はわかる?』
「ふじ、と書かれているわ」
『ふじか……赤い?』
「赤いけど少し黄色いわよ」
通りの向こうから黒猫を抱いて走ってきた女の人が、青果店のおじさんに声をかけて、ふじを買っていく。
残念。裕二には悪いけど、リンゴはたった今売り切れたわ。
『ふじは僕が一番好きなリンゴなんだ。教えてくれてありがとう』
売り切れたことを伝えようか迷ったけれど、口にしない。
「リンゴが好きなのね、覚えておくわ」
それだけ告げて、電話を切る。
最初の電話でこれだけ長く話したのは初めてだ。
裁判所からのメールを確認する。
『牧瀬裕二。十六歳。笹倉総合病院、五階五一二号室』
裕二は病院に住んでいる。入院しているのだろう。病院から裁判所へ行く人間は多い。
何の病気でどれくらいの期間入院しているのか、その人の人柄はどんなものか、なんて私は知らなくてもいい。
メールに書かれた人間の魂を抜き取って、裁判所に連れていくだけの、簡単なお仕事。
『接触あり、検討中』
それだけ返信して、私、死神メリーは今日の仕事を終える。
◆◇◆◇◆
「もしもし、私、メリーさん。今、笹倉小学校にいるの」
『おはよう、メリーさん。すごく賑やかな音が聞こえるけど、何の音?』
「子どもと大人がたくさんいるわ。うるさい音楽も鳴ってる。運動場を派手に飾りつけて、今子どもたちが赤と白の丸いものを空に放り投げているわ」
裕二は電話の向こうで嬉しそうに叫んだ。
『運動会だ!』
「うんどうかい?」
『玉入れをしているんだと思うよ。子どもたちは楽しそうでしょ?』
楽しそう、なのかはわからない。遠くて子どもたちの表情はよく見えない。けれど、彼らのきゃあきゃあという高い声はよく聞こえる。
どうしたら、あんな甲高い声が出せるのか。
私が魂を抜く直前の人間も、そう。ギャアアアとかヒイィィィとか叫んで倒れる。おかげで、魂を抜くために口を開かせる手間が省けて楽なのだけれど、いい気分ではない。
かわいい死神の顔を見て叫び声をあげるなんて、失礼にも程がある。
私はしばらく電話口で無言になり、携帯電話を小学校に向けて、小学生の楽しそうな声と賑やかな音楽を裕二に届ける。
眩しいほどの日差し。薄い青が溶ける空に雲は一つもない。気持ちのいい晴天だ。
『ありがとう、メリーさん』
裕二の静かな声が聞こえたので、電話を切る。
そして、裁判所からのメールに前回と同じ言葉を書いて返信する。
『接触あり、検討中』
◆◇◆◇◆
「もしもし、私、メリーさん。今、ショッピングモールにいるの」
『あぁ、最近できたところだね。人が多いでしょ? 迷子にならないようにね』
「ええ、ありがとう。ここも賑やかね。緑色の大きな木が飾ってあるわ」
『どんな飾り?』
近づいて確認すると、キラキラしたテープや星、赤いおじさんや雪だるまが飾られており、色とりどりのライトが点滅している。
「全体的にピカピカしているわ。星や雪だるまがぶら下がってる。赤と白のステッキみたいなものや、キラキラのボールもあるわよ」
『クリスマスツリーだね。どれくらい大きい?』
「私の背の……五倍くらい? とにかく大きいわ」
クリスマスツリーとやらから少し離れたところで、一組の男女が並んで何かを叫んでいる。手渡されたチラシを見ると、「移植を待っている私たちの息子です」と書かれた文字と青白い顔の子どもの顔。目立つ文字で、臓器提供だとかドナー登録だとか、そういう言葉が並んでいる。
人間は不自由な生き物だ。魂だけの存在になってしまえば、肉体の病なんかに悩まなくてすむのに。苦しまなくてすむのに、肉体を手放さない人間のなんと多いことか。
私は紙を丸めて近くのゴミ箱にポイと捨てる。私には必要のないものだ。
『もうすぐクリスマスだからね』
「ふぅん。人間はきらびやかで賑やかなものが好きね」
『きらびやかで賑やかなものは嫌い?』
「嫌いではないけど、好きでもないわ。私には必要のないものだから」
『そう……メリーさんは何が好き? 僕が好きなものはリンゴだって伝えたけど、メリーさんの好きなものは知らないから』
少し悩んで、私は答える。
「……は嫌いじゃないわ」
『わかった。覚えておくね』
裕二との電話を切る。
歩く途中で、山積みになったリンゴが目に入った。黄色のリンゴと、赤いリンゴ。赤いリンゴがふじ。青森産と書いてある。
裕二に一つ持っていこう。
『接触あり、検討中』
……出口を探しているわけじゃないのよ。迷っているわけじゃないの。
笹倉総合病院まで、あと少し。
◆◇◆◇◆
その日、裕二は電話に出なかった。コール音は鳴るけれど。
よくあることだ。近づいてくる私に気がついて、対象者が電話に出てくれなくなることは多い。
けれど、裕二に限って、私を避けるということは考えづらい。裕二は私の電話があるたびに、嬉しそうに出てくれるし、楽しそうに話してくれるから。
この場合は、私が近づくことによって、体調が悪化したと見るべきだ。裕二がどんな病気なのかは知らないけれど、裁判所から居場所の変更のメールもないし、ただ電話に出られないくらいに悪化しただけだろう。
そんなことを考えながら角を曲がると、目の前に笹倉総合病院が見える。
「やあ、メリー」
「こんにちは、ノワール」
病院の芝生の影から現れた真っ黒な猫に挨拶する。同業者だ。死と密接な関係のある病院には、同業者が多く存在する。
たいていの死神は、他の死神と関わることを面倒臭がるので、話しかけてくるノワールは特殊なほうだと言える。お喋りなのか、暇なのか、私はさほど死神猫に興味がない。
「ここに君のターゲットがいるのかい?」
「ええ」
「奇遇だね。僕のターゲットもここにいるんだ。判定はどうするの? 僕は連行しようと思っているけど」
死神は裁判所からの命令で人間の魂を「連行」するか、「保留」するか、決めることができる。連行なら人間は死に、保留なら少し寿命が延びる。
私たち死神には、それを選定するための「検討」する時間が与えられている。一週間検討することもあれば、一ヶ月かかることもある。三日で終わることもある。
「まだ検討中よ。でも、たぶん、連行するわ」
「そう。じゃあ、また」
対象者がやってきたのか、ノワールは病院から出てきた女の人にすり寄っていく。どうやらショッピングモールへ何か買い物をしに行くらしい。ノワールは抱きかかえられて満足そうだ。
対象者を間近で観察できる動物という姿は羨ましい。スマートフォンのメッセージアプリで対象者に接触するタイプの死神もいるけれど、私は携帯電話で構わない。
『接触なし、検討中』
メールを送って、真っ白で無機質な病院を見上げる。
もしもし、私、メリーさん。今、病院に着いたわ。
◆◇◆◇◆
「もしもし、私、メリーさん。今、病院の一階にいるわ」
電話の向こうで喉を鳴らす音が聞こえた。
『……随分近くまで来てくれたんだね。今日……来るのかな?』
「それはわからないけど、明日か明後日じゃないかしら」
裕二は私の正体に気づいている。もとから死期を悟っている人間なら、私の存在には敏感だ。
別に、バレるのは構わない。そういうものだ。だって、明日か明後日には裕二は死ぬ。
『確かに、一階のホールでやっているクリスマスコンサートの歌が聞こえるね』
「聞きたい?」
『いや、メリーさん、君と話がしたい』
裕二の声は落ち着いているけれど、元気がない。症状が悪化しているのだろう。まぁ、あまり興味はない。
クリスマスコンサートのほうが興味深い。真っ白な衣装を着た幼い聖歌隊が歌を歌う。子どもたちの歌声は悪くない。運動会の大声よりずっと好ましい。
『僕は心臓が悪いんだ。小さい頃からずっと入院していて、自由に外に遊びに行くこともできない。移植すれば治るんだけど、人の心臓を貰うのは忍びなくて』
人間は不思議。
魂さえあれば、肉体なんて意味をなさないものなのに、その肉体に縛られたがる。生きたがる。
『昨日はちょっと体がしんどくて、電話してくれたのに、出られなくてごめんね』
謝る必要はない。理由はわかっているから。それに、私、ちゃんと迷わずそばまで来ているから。
幼い聖歌隊の歌声、聞こえる?
彼らは今、赤い鼻のトナカイの歌を歌っているわよ。
『メリーさん』
「なに?」
『僕、生きたかった。もう少し、生きたかったよ』
「……そう」
『運動会にも出てみたかった。走るって楽しそうだもん。新しいショッピングモールで、パジャマ以外の服を買ってみたかったよ。普通に遊んで、普通に勉強したかった……いろいろ、うん、いろいろやりたかったな』
十六歳。確かに、本来ならまだまだ生きていける年齢だった。
電話の向こうから聞こえる嗚咽に、胸がチリリと痛む。裕二が泣いている。
『メリーさん、お願い。父さんと母さんと姉ちゃんに挨拶したいから、今日は、まだ来ないでほしいんだ』
「……わかったわ」
本来なら対象者の願いなど聞き入れるべきではない。わかっているけれど、明日か明後日には裕二は死ぬのだから構わないだろう。最期の願いだ。
もし、裁判所から「警告」があったら、そのとき考えよう。
電話を切って、メールを送る。
『接触あり、検討中』
ノワールは、もう「連行」にしただろうか。
サンタが街にやってくる、と聖歌隊は歌う。
残念ね。
死神が病院に、やってきたわよ。
◆◇◆◇◆
「もしもし、私、メリーさん。今、五階にいるわ」
『あと少しで会えるね、メリーさん』
裕二の落ち着いた声に、妙にドキリとする。家族への挨拶はうまくいったのだろうか。
死を直前にしてもなお、裕二は落ち着いている。しかも、昨日よりもずっと晴れやかな声だ。
死ぬとわかっていて、なぜそんなに落ち着いていられるのか、わからない。
だって、今までの人間は皆命乞いをしてきた。死にたくないと泣き叫んで、喚く様子ばかり見てきた。
裕二は、最初から最期まで、違う。不思議。
『メリーさん、僕に外の様子を教えてくれてありがとう。嬉しかったよ』
「そうだったかしら?」
『うん。姉ちゃんがリンゴを買っている声も聞けたし、小学校の運動会も楽しそうだった。父さんや母さんの声も、クリスマスソングも聞けたし……今日はメリーさんに会える』
ドキリ。また心が跳ねる。
あのね、私と会った瞬間に、裕二は死ぬのよ? 死んじゃうのよ?
それでも、会いたいと思ってくれるの?
『今日は最高のクリスマスだよ』
電話を切る。対象者のあんな穏やかな声、聞いていられない。
覚悟なんて決めなくていい。
対象者は、泣いて叫んで喚いてくれなくちゃ、死神の仕事じゃない。私の仕事じゃないじゃない。
会いたいと言われるなんて、死神メリーの恥だわ。
◆◇◆◇◆
五一二号室の前。薄いピンク色の扉の前で、私は裕二に電話をかける。
「もしもし、私、メリーさん。今、部屋の前にいるわ」
『いいよ、入ってきて』
「……いいの?」
『うん。あ、そうだ。その前に一つ、お願いがあるんだ』
「なに?」
胸がざわつくほどの穏やかな裕二の声。壁にある少し黄ばんだ牧瀬裕二のネームプレートを睨みながら、彼の声を聞く。
『メリーさんにプレゼントがあるから、受け取ってほしい。ツリーの下に名前を書いて置いておくから』
「……わかったわ」
『ありがとう、メリーさん』
裕二との電話を切る。
そして、裁判所へのメールを作る。
慣れた作業だ。なのに、指が震える。いつもなら気にならないはずの救急車のサイレン音が、なぜかよく聞こえる。どうやら死神メリーは珍しく緊張しているらしい。
深呼吸をして、送信ボタンを押す。
はぁ、とため息を吐き出して、私は扉に手をかけた。
◆◇◆◇◆
ベッドの近くの机に、小さなクリスマスツリーがある。その下に、スマートフォンとラッピングされた小さな箱が置いてある。
ショッピングモールのテナントの包装紙を破り、箱を開けると、イチゴのストラップが入っていた。携帯電話につけると、死神が持つものにしてはかなりかわいらしくなった。
イチゴが好きだと私が言ったから、準備してくれたのだろう。裕二は外に出られないから、あのときお姉さんが買ってきてくれたのだろう。
嬉しい。素直にそう思う。スマートフォンについたリンゴのストラップとお揃いのようだ。
箱の中には、カードが入っている。
『親愛なるメリーさんへ。メリー・クリスマス』
これは裕二の字。ところどころ線が歪んでいる、痛みを我慢して書いた、裕二の字。優しい字だと思う。
カードをワンピースのポケットにしまって、スマートフォンの上にリンゴを置く。空っぽのベッドを見て、私は携帯電話のイチゴストラップを握る。
今頃、手術中だろう。移植は時間がかかるというから。
「クリスマスプレゼント、気に入ってくれたかしら」
ノワールは「連行」し、私は「保留」した。
私が裕二の部屋に入る前に、彼を載せたストレッチャーが手術室と向かっていった。私の目の前を、いつかのチラシで見た青白い顔の男の子が通り過ぎていったのだ。その少し前、救急車が連れてきた、新たな命を彼に繋ぐために。
手術は成功する。私が寿命を延ばしたから。
お姉さんの魂はまたいつか戻ってくる。肉体はなくなってしまうけれど。
目が覚めたとき、裕二は泣くかもしれない。
すべてを理解したとき、私と猫を憎むかもしれない。
けれど――裕二は生きるの。これからの生を走っていくのよ。
メリー、クリスマス。
了