無言で寛人の手を引き、藍は交差点をいくつか曲がり、路地を進む。寛人は藍の名前を何度か呼んだが、彼女はそれに応じない。そして、二人で一度来たことのあるラブホにたどり着く。
寛人と同居し始めてから来るのは久しぶりだったが、システムは変わっていないようだった。藍は迷うことなくパネルの空き部屋のボタンを押し、階段を登って、点滅している部屋へと寛人の体を押し入れる。
「ちょっ、ま」
室内は青く薄暗い。青い照明になっている部屋のようだ。
足元でスニーカーを脱ぐのに手間取っている寛人をどんと突き飛ばし、彼が抗議の声を上げる前に、腰のあたりで馬乗りになる。寛人の両手を押さえて、藍は強引にキスをする。もちろん、最初から舌を挿れて。履いていたパンプスは揃えられることなく落ちたまま。
寛人は従順に、暴れることもなく、藍の舌を受け入れる。唇の柔らかさも、熱さも、唾液の味も、お互いのものはよく知っている。
ただ、体を求めながら心をも求め合うセックスは、知らないだけだ。
「あ、い?」
「ん、何?」
「せめて、ベッドで」
ハァ、と溜め息をついて、藍は寛人を見下ろす。青い照明の下で寛人の顔の色まではわからないが、目が泳いでいるところを見ると多少は照れているようだ。
再度、藍は大きく溜め息を吐き出す。
「そこまで待てないって言ってんの」
「……そんなに?」
「触る? 準備万端すぎて笑えるよ」
金属音をさせながら、藍は寛人のベルトを外す。観念したのか、覚悟を決めたのか、寛人が腰を浮かして藍の手助けをする。ボクサーパンツの中のものは、既に硬く、反り立っている。藍はうっとりとした表情で布越しにその剛直に指を滑らせて、先端を親指で擦る。
寛人の指が藍の太腿をたどり、スカートをたくし上げていく。そして、彼は目を見開いたあと、「ごめん、忘れてた」と素直に謝った。
「……だと思った」
「ごめん。異動のことをどうやって切り出そうかと――って、ちょっ、藍!」
ボクサーパンツをずらし、いきなり尖端の上に自らの蜜口を宛てがった藍を、思わず寛人は腰を押さえて止める。藍は不機嫌そうに寛人を見下ろす。
「だから、さっきから言ってるでしょ。我慢できないって」
「いいのか? ナマだぞ?」
「今さら? ピル飲んでるとこ見たじゃん。で、怒ったじゃん」
陰茎の尖端をヌルヌルと花弁に擦り付ける。藍の予想通り、ナカはひどくぬかるんでいる。次から次へと溢れて仕方ない。
蜜液だけではない。
寛人への想いも、同じ。
溢れてきて仕方がない。
「ね、何で怒ったの? 私がピル飲んでるの、そんなに気に入らなかった? どうして気に入らなかったの? ねぇ、寛人」
寛人から答えはない。藍も、別に答えが欲しいわけではない。
蜜を塗り込むたび、寛人の体がビクと震える。わざとぐちゅぐちゅと音を立ててみると、さらに奥から溢れてくる。彼が快感に顔をしかめるのを見下ろすのが、藍にとってはたまらなく気持ちいい。
「本当は、ナカに出したいんでしょう?」
亀頭を少しだけ咥え込んで、藍は体を揺らす。寛人は顔を歪めて藍を見上げてくる。切なそうに、藍を求める。
わかっている。
なぜ、ナカに出したがったのか。
なぜ、今日、二人で出かけることになったのか。
なぜ、寛人がピルを見て怒ったのか。
――だったら、もっと、求めてよ。
「ねぇ、寛人」
藍は笑う。
寛人に自覚してもらいたいのだ。藍はもう、自分の行動の根本が何なのかわかっている。
体だけの関係だったはずなのに、それだけでは満足できなくなっていた。
おそらく――お互いに。
「私を孕ませたい?」
藍が無遠慮にずぶと腰を落とすと「あぁっ」と寛人が小さく声を上げた。答えが聞けなくとも、藍はそれだけで満足だ。
膣壁は十分に濡れており、熱い杭をいともたやすく奥まで飲み込んだ。痛みはない。慣れた硬さと太さだ。上下に往復させると、ただ、気持ちがいいだけ。
寛人はいちいち「ダメだ」「気持ちいい」「それ以上はまずい」「やめろ」と啼く。避妊具を使わずに騎乗位をするのは初めてだっただろうかと藍は思案する。「上になって」と言われて動いたことはあったが、自ら寛人を組み敷いて腰を振るのは、初めてかもしれない。
「藍、待て、保たない」
「もう?」
「もう。ほんと、ヤバいから」
時間はどっちでもいい。長いのも短いのも、藍は好きだ。寛人が長く楽しみたいと言うのなら、それに従うだけ。
藍は深くまで繋がったまま、腰を上下には動かさない。グリグリと貪欲に奥を求めると、寛人が顔を歪ませる。藍に相手を虐げる癖はないが、それはそれで、楽しいのだ。
寛人の指が藍のパーカーのファスナーを下げ、さらにキャミソールの胸元を引き下げる。あらわになったオレンジ色のブラジャーの縁を下げ、乳房をその上に乗せる。小さくはない胸が、大きく谷間を作る。
「……エロい」
「そう?」
「むしゃぶりつきたくなる」
上体を起こした寛人が、藍の鎖骨に吸い付く。ホテルから出たあと、パーカーのファスナーを上まで上げれば痕は目立たなくなるだろう。寛人の好きなようにさせておく。
「ん? 何?」
シャラと首元に何か冷たいものが触れる。怪訝そうな顔で寛人を見ると、彼は彼で必死に首の後ろに手を回している最中だった。藍は疑問に思いながらも彼の意図を察し、腰を動かすのを中断して大人しくする。
何秒か経ったあと、寛人が「できた」と嬉しそうに笑った。どうやら、首にチェーンがついたらしい。もちろん、藍には見えていない。ネックレスかペンダントか……指をやるとトップがついているようなので、ペンダントだろう。
これは何?
藍が尋ねるより先に、寛人がキスをする。少しだけ腰を揺らしながら、藍はそれに応じる。
「藍」
「うん?」
藍の目をしっかりと見つめて、深呼吸をした寛人が、その言葉を口にした。
「結婚しよう」
――結婚。
その言葉は、予想外だった。
「孕ませたい」という寛人の気持ちは理解しているつもりだったが、藍のほうは「結婚」までは結びついていなかったのだ。ただのプレイだと思おうとしていたのかもしれない。
セフレから一気に色々と飛び越え、すべてが現実的に生々しくなった気がして、藍は思わず「なんで?」と尋ねていた。
「お前、プロポーズに『なんで?』はないだろ」
「いや、だって、普通は、結婚じゃなくて付き合うんじゃない? こういう場合」
寛人は藍の言葉に頷いたが、「結婚」は譲らなかった。
「遠距離なんてまどろっこしいこと、したくない。名古屋についてきてほしい」
「うちの会社、名古屋にも支店あるから、それは別にいいけど……今まで通り同居じゃダメなの?」
「ダメ。同棲でもダメ」
理由を聞かせてほしいんだけど、と思いながら藍が寛人を睨むと、彼は穏やかな笑みを浮かべてそっと藍のお腹に手を当てた。熱い手のひらに、藍はなるほどと納得する。
それが理由なのだ。
プレイではなく、「本気」だったのだ。
だから、ピルを飲んでいることを、本気で怒ったのだ。
「お前を孕ませたい」
寛人の低い声に背中が粟立つ。ぞくぞくする。体だけではなく顔まで熱くなる。
求められるとはこういうことなのか。
藍の体と心が震えた。彼女が思っている以上に、その言葉は嬉しかった。気持ちが良かったのだ。
「もう一回、言って」
「藍を孕ませたい。結婚しよう」
寛人のキスに応じながら、藍は「ダメ」の理由を探す。
会社は異動願を出してしまえば、三ヶ月以内に叶えられるだろう。見知らぬ土地へ行くことは別に嫌なことではない。
寛人と一緒に暮らすことも別に嫌なことではない。セックスも嫌ではない。
寛人が「子どもが欲しい」だけなら、相手は藍でなくとも構わないのではないか。ただそれだけが気がかりなことだ。
「……妊娠しないかもよ?」
「それでもいい。毎日ナカにたっぷり注ぎたい」
「んー、毎日は嫌かも」
「じゃあ、一日おきでいい」
「そういう問題じゃないんだけど……」
「お前が欲しい」
ぐらり、心が揺れた。体も揺れた。
寛人の目が藍を捕らえて離さない。
「藍が欲しい。好きなんだよ」
――好き。
その言葉が欲しかったのだ、と藍は納得する。「孕ませたい」と最上級に求められながら、気持ちが伴わないなら意味がない。意味がなかった。
「もっと、言って」
「好きだ、藍。好きだ」
優しく「好き」の粒が落ちてくる。雨のように降ってくる。
溢れて仕方がない。心も体も、ひどく濡れている。
「ねぇ、寛人」
なぜ、寛人の「寂しい」が嬉しかったのか。
なぜ、今、こんなにも満たされているのか。
「私も好きよ」
瞬間、下から突き上げられ、藍の体が跳ねる。硬くて太い熱杭に、貫かれるようだ。
「やっ、ダメ、はげし、っ」
「――奥に出す。いいか?」
「あっ、あ、ん、いい、いいよっ」
「ナカに、出すぞ?」
それは最終確認なのか、藍に言い聞かせているのか、よくわからない。おそらく、寛人にもわかっていないはずだ。
ただ、無意味な言葉にも意味はある。お互いを高めるために。
「寛人、ひろ、好きっ、奥に、ちょうだい?」
「あー、それ、エロい」
ベッドでもソファでもなく、着の身着のままで、部屋の入り口の床で求め合う。悪くはない、と藍は思う。自分たちらしいセックスだ、と。
寛人がぐりと奥を穿つ。少しの痛みとともに、ナカで熱が広がる。寛人は何度も震え、藍は彼の滾りを受け入れる。
そして、しばらく荒く息をしながら、抱き合ったまま、熱を逃がす。寛人は「ヤバい、気持ち良い」とぶつぶつ呟いている。病みつきになったら困る、と思いながらも藍は否定しない。
確かに、気持ちがいい。
体だけを求め合うよりは、ずっと、気持ち良かった。もっと早くに「恋人」になっていればもっと気持ち良かったのだろうかと思うと、もったいない気がした。
「……で、藍、答えは?」
「いいよ。結婚しようか」
お互いに見つめ合って、唇を重ねる。いやらしくない、ただのキスだ。それだけなのに、何とも気持ち良くて、藍はにやにやと笑うのだ。
◆◇◆◇◆
「アクアマリン?」
寛人が首につけてくれたのは、ペンダント。トップにはいくつかの宝石がついている。中央に丸い大きめの石。その周り、上部に一つ、下部に二つ。鏡を見て確認する。とは言っても、照明のせいでぜんぶ青にしか見えないのだが、キラキラと輝いているのはよく見えた。小さいが存在感のあるジュエリーだ。
「アクアマリンと、サファイアと、ダイヤ」
「へー。なんで?」
「婚約指輪の代わり」
「……プロポーズ断ったらどうするつもりだったの?」
「餞別のプレゼントにする予定だった。ま、受け取ってもらえて良かったよ」
どちらにしてもプレゼントにするつもりだったようだ。「ありがとう」と藍は笑う。宝石店で寛人がアクセサリーを買うところを想像して、その似合わなさに笑いが止まらなかった。
「職場の近くにジュエリーショップ? 宝石工房? そういう店があってさ、その中にそいつがいてさー。高かったけど、アクアマリンは藍らしいかなと思って。サファイアには『誠実』って意味があるらしいから、俺も、こう、これからは誠実に生きなきゃと」
寛人は得意げに購入した経緯やそれぞれの宝石の石言葉を口にしていたが、藍はほとんど聞いていなかった。鏡に映る宝石を見るので忙しかったのだ。
寛人が必死で買ってきたアクセサリーだ。気に入らないわけがなかった。
「……にしても、すげえな、この部屋」
「そうだね」
青い照明の部屋は、まるで海だった。壁にイルカやペンギン、ラッコが泳いでいる姿が描かれている。絵なのか写真なのか、藍にはさっぱりわからない。だが、最後まで見られなかった水族館にいるようで、デートの続きをしているようで、心地よい。
ベッドに寝転ぶと、自分も海で泳いでいるような――いや、溺れて沈んでいくような感覚になる。
「それ、海の中に落とすなよ?」
「なんで?」
「見えなくなるらしいから」
だからアクアマリンなんだぜ、と寛人は笑う。
「お前らしいだろ」
「ん、『お前らしい』の意味が全然わからないけど、嬉しい。ありがと」
チェーンもホワイトゴールドの地金も他の宝石もついているのだから、海中でも見えなくなるわけではないだろうと藍は思ったが、口にはしない。
ただ、自分のことを思って寛人が宝石を選んでくれたことが嬉しかった。おそらく店員から仕入れたであろうネタを一生懸命饒舌に話してくる姿も、何とも愛おしかった。
そんな彼が「よく似合ってる」と笑うから、藍は満足している。
「あぁ、ねぇ、寛人」
「ん?」
貝のような形の、青白いベッドの上。本当に海の底にいるみたいだと藍は思う。溺れないように、寛人にぎゅうと抱きつく。
――溺れるなら、彼の腕の中がいい。
じわり、蜜口から液体が溢れ出る。寛人のものか、自分のものか、判断はつかない。どちらでもいい。準備はできている。
「どうしよう、零れちゃう」
「――それは、もう一回塞いでくれってこと?」
寛人は嬉しそうに藍にキスをしながら、体勢を変える。今度は彼が、上になるようだ。
「一回でいいの? 私は何回でもイケるけど?」
「……アクアマリンに『誘惑』って意味、あったかな」
「さぁ? 昨日も対面座位だったから、次は後ろからがいいな」
「はいはい、犯してくれってことね」
「バカ」と笑いながら、藍は好きな人にキスをする。その首元で、シャラと小さな音を立ててアクアマリンが揺れる。
何とも幸せな、海の底の、情事。
藍がアクアマリンの和名を知るのはもう少し先の話。
それから、深海寛人と婚姻届を出すときに「藍らしい宝石」だという理由も知るのだが、それもまた、もう少し先の話。
了