シンデレラ✕婚約破棄系(2020)

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 令嬢はその光景を呆然と見つめていた。
 自分の婚約者たる王子が、自分以外の娘と踊っているのだ。
 綺麗な金色の髪は結い上げ、ターンするたびに波打ち際のような美しい青と白が揺れるドレス。装飾品はすべて真珠でまとめられている。足元には虹色に光るガラスの靴。輝くばかりの娘と踊る婚約者の満面の笑みを見て、令嬢の心に荒くれた波が立つ。

 ――そんな笑顔、最近わたくしには見せてくれたことなんてないのに。

 娘の正体はわからない。田舎の下級貴族の娘かもしれないし、平民かもしれない。実はずっとどこかに隠されて育てられた他国の王女かもしれない。
 令嬢は娘の正体などどうでもよかった。
 ただ、大好きな王子が自分以外の美しい娘と踊っていることが悲しく、妬ましく、苦しい。そうして、真実の愛を見つけた王子から「この娘と結婚するため、お前との婚約は解消する」と言われてしまうことを何よりも恐れている。

「婚約者もいるのに、王子の行動は少し軽率ではないかしら」
「しかし、彼女は美しい。王子が心を動かすのも仕方ないだろう」

 あたりの貴族たちから遠巻きに見られていることに気づき、令嬢は背筋を伸ばし胸を張った。

 ――わたくしが不安そうな顔をしていたら、王子が心変わりをしたのだと思われてしまうわ。それは王子にもわたくしにも不利益なこと。せめてわたくしは、顔に出さないようにしなければ。

 令嬢は穏やかな笑みを浮かべ、王子と娘のダンスを見守ることにした。婚約者が許可したダンスなのだと、周りの貴族たちが思い込むように。
 しかし、曲が終わろうとも二人が離れる様子はなく、見つめ合って微笑み、何かを耳打ちしては笑い合い、楽隊は二人が長く踊ることができるようにとゆったりとした曲を演奏し始める。
 令嬢は落胆した。
 見知らぬ娘とのダンスは一度きりで、あとは自分と踊ってくれるものと思っていたのだ。王子はその淡い期待を裏切り、娘に寄り添い、楽しく踊っている。

「兄さんも人が悪い。どうしてこんなに美しい婚約者を放っておいて、あんな娘に夢中になれるのやら」

 令嬢の隣に立ったのは、王子の弟だ。昔から仲良く三人で遊んでいたため、令嬢にとっては弟のような存在だ。

「本当に。わたくしの気持ちを考えてくださらないのはいつものことだけれど、今回は少し……」
「つらい? じゃあ、夜風に当たることにしようか」

 弟王子に手を取られ、令嬢は王族しか立ち入ることのできない廊下を進み、控室を通り抜け、子どもの頃、三人がよく遊んでいた庭へとたどり着く。
 木々は綺麗に剪定され、花も季節のものが咲いている。子どもの頃の記憶と違わぬ風景に、あたりを見回した令嬢は「ここは変わらないのね」と感嘆する。冷たい夜風が、随分と変わってしまった二人の頬を撫でていく。
 月と星だけの頼りない明かりの下、令嬢は弟王子に誘導されて木製の長椅子に腰掛ける。

「ねぇ、あなたの手、大きくなったのね」
「ハハハ。僕はいつまでも、あの木から落ちて泣いていた男の子じゃないんだよ」
「そうね。人は成長するものよね」

 ――わたくしは、あのときのままだわ。木から降りられなくて泣いていたわたくしを、助けに来てくれた王子に恋をしたあのときから、ずっと変わっていない。

「わたくしの気持ちは変わらないけれど、相手の気持ちが変わらないとは限らないのね……こうして、すれ違ってしまうこともあるのね。修復できないほどに」

 令嬢は悟る。
 仲良く踊り続ける二人を見て、国王は王子と自分の婚約解消を認めるだろう。国王は、亡くなった王妃を今でも愛している。「愛」の強さを一番理解しているのだ。政略的な婚約は、愛の前に破れ去るのだ。

「ねぇ、王子はわたくしとの婚約をなかったことにすると思う?」
「あの娘との恋を、愛だと理解した瞬間にね」
「王子はわたくしに恋をしてくれなかったのかしら」
「残念だけれど」

 弟王子の言葉に、令嬢は肩を落とす。
 幼い頃に決められていた婚約だ。恋や愛などは介在していない。令嬢は王子に恋をしていたが、王子はそうではなかったのだろう。王子と自分との間には、何か大きな壁があるのだと、令嬢も十分に理解していた。

「王子との婚約を解消された女は、どうなるのかしら。お父様がまた利のある縁談を探してくるかしら」
「そうだね。心配することはないよ。きみは幸せになれる」
「そう……そうだといいわね」

 令嬢は力なく笑う。そんな令嬢に、弟王子が一歩近づいたときだ。
 庭の向こうから、男女の楽しげな笑い声と、足音が近づいてくる。王族しか立ち入ることができない庭にやってくる二人――令嬢の顔が曇る。「今はあの二人の顔を見たくないわ」と長椅子から立ち上がって逃げようとした令嬢を、弟王子がぎゅうと抱きしめる。

「……おや、先客がいたか」
「そう。ここは譲らないよ。兄さんたちは向こうへ行ってくれないかな」
「そうするさ。仲良く、ごゆっくり」

 弟王子が令嬢の姿を隠していたため、王子は自分の婚約者がそこにいるとは思わなかったのだろう。青いドレスの娘と連れ立って、楽しげに笑いながら庭の奥へと進んでいった。
 弟王子は、令嬢を抱きしめたままだ。
 令嬢の肩は震え、小さな嗚咽が繰り返されている。

「王子は、わたくしのドレスを、覚えていて、くださらなかった、のね」

 弟王子が令嬢の姿をすべて覆い隠せるものではない。はみ出したドレスの特徴を、王子が一つでも覚えていてくれたのであれば、そこに婚約者の令嬢がいることは明白であったはずなのだ。
 王子が素通りした、彼は自分のことなど何とも思っていない――それを痛感する。令嬢にとって、大変な屈辱であり、悲劇である。

「……わたくしの恋は、真実の愛の前に負けてしまったのね」
「真実の愛、ねぇ。僕はそういうの、あんまり好みじゃないな」
「ごめんなさい、せっかくのタキシードがわたくしの涙で汚れてしまったわ」
「いいよ。好きなひとの涙を拭くことができるなら安いものだよ」

 突然の告白に、令嬢は化粧の崩れも忘れてしまうくらいに驚いて、顔を上げた。そうして、弟王子の得意げな笑みに見下されていることに、彼の深緑色の瞳の中には自分しか映っていないことに、ようやく気づく。

「あの様子だと、きっと兄さんはあの娘と結婚したがるだろうね。それとも、側室に迎えるかな。きみはどうする? そんな屈辱に、我慢して従う? 耐えられる?」
「ね、ねえ」
「それとも、婚約を解消して、元婚約者の弟と結婚する?」
「だから、え? え?」

 弟王子はにっこりと微笑み、長椅子にへたり込む令嬢の前で、跪いた。令嬢の両手は、一回り大きな彼の手に覆われている。

「きっときみを幸せにするから、僕と結婚して」

 弟王子の突然の求婚に、令嬢はただ目を丸くする。兄ではなく弟と結婚することを、彼女は今まで一度も考えたことがなかったのだ。 

「木から落ちて泣いていた僕を手当し、慰めてくれたでしょう? あのときから、僕はきみのことが好きで好きで仕方なかったんだ。きみがたとえ、兄さんの婚約者だとしても」

 弟王子の真剣な眼差しと燃えるように熱い手のひらに、令嬢は狼狽する。彼が本気であることを、彼の想いが偽りではないことを、彼女は知ってしまった。

「ねぇ、僕に奪われてよ」

 ――わたくし、王子から「好き」だとも「結婚してほしい」とも言われたことなんてなかったのではないかしら。ただの一度たりとも。

 まさか初めて求婚の言葉をもらうのが婚約者の弟からになるとは、令嬢も想像すらしていなかった。皮肉なめぐり合わせだ。
 ただ、不思議と嫌な気持ちにはならない。元来、弟のような存在だと思っていた相手ゆえに、多少の好意は持ち合わせていたものだ。
 もちろん、失恋したばかりの令嬢がすぐに次の恋に夢中になれるものではない。

「……返事は、彼の気持ちを聞いてからでも、いいかしら?」
「もちろん。兄さんがあの娘を気に入ったのは間違いないけど、立場上、きみから婚約解消を言い出すわけにはいかないだろうから、いくらでも待つよ」

 僕はもう十年以上待っているのだから、と弟王子は笑顔で付け加えた。

「わたくしも、十年以上恋をしていたのだけれど、たった一目の愛に負けたのね」
「僕の、十年以上の愛が実った、と言ってもらいたいところだよ」

 弟王子は微笑む。

「ねぇ、ところで――」

 耳元で名前を呼ばれ、令嬢は顔を真っ赤にして慌てた。思わず離れようとしたが、十年以上育まれてきた愛の檻に捕らえられたのだ、逃げ道はない。弟王子の腕の中にすっぽりと収まったまま、令嬢は硬直する。

「その森の色のドレス、綺麗だよ。よく似合っている。僕の瞳の色に合わせてくれたんだよね」

 深い常磐色のドレスは、もちろん、弟王子を意識したものではない。令嬢は困惑したまま、肯定も否定もしなかった。
 気を良くした弟王子はそのまま令嬢にキスを迫り、動揺した令嬢から平手打ちを食らってしまうのだった。

 後日。
 舞踏会で真実の愛に目覚めた王子は、長年一緒にいた令嬢との婚約を解消した。そして、ガラスの靴を残して姿を消してしまった娘を、必死になって探し回ることになる。
 王子が娘探しをしている間に、元婚約者の令嬢と王子の弟の結婚が決まった。傷心の令嬢を弟王子が慰めたのだという美談が広まったが、実際は十年以上の片想いをこじらせた上での略奪に近いものだったことは伏せられている。
 弟王子に近しい人々は「血を血で洗う争いに発展しなくて良かった」「収まるところに収まって良かった」とホッと胸を撫で下ろしたとか。

 さて、ガラスの靴を持った王子自身が国内外を駆け回り、田舎の男爵家で娘を無事に見つけ出したものの、「婚約者と弟をくっつけるために、私の心をもてあそんだわね!?」となじられ、誤解を解くために奔走し続ける――というのは、また別の話。

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