ラプンツェル(2020)

◆◇◆◇◆

「あぁ、退屈だわ」

 聖なる塔の窓から外を見下ろしながら、聖女は溜め息をついた。
 神託で聖女であることを告げられてからずっと、この聖女は二千階段もある聖なる塔の上で祈りを捧げながら、たまに歌を歌いながら生活をしている。
 聖なる塔の百段目付近には広々とした大礼拝堂が設けられているため、信者の出入りは少なくない。しかし、大礼拝堂より上は聖職者以外立入禁止のため、聖女のいる最上階までやってくる者はほとんどいない。

「誰か外に連れ出してくれないかしら」

 聖女専用の小さな礼拝堂で祈りを捧げたあと、聖女は退屈を持て余す。賛美歌を歌ったり、刺繍をしたり、服を繕ったり、故郷の歌を歌ったり、椅子を修理したり、棚を造り付けたり、歌いながら料理をしたり、歌いながら掃除をしたり……一通りの仕事が終わると、聖女は暇になるのだ。
 暇になると、大抵聖女は歌を歌う。鼻歌も、替え歌も、気分によって。それしか、聖なる塔の中には娯楽がなかった。
 半年前までは。

 今日は、階段からいくつもの足音が聞こえる。聖女はうきうきしながらコップに水を注いで、小礼拝堂のテーブルに置いていく。

「聖女様!」
「ふふ。今日も一番だね。きみは本当に足腰が丈夫なのねぇ」

 軽やかな足取りでやってきたのは、聖騎士団の少年だ。入団して半年ほどの少年は、この聖なる塔を使った鍛錬でいつも一番に登ってくる。半年間、ずっと一番だ。
 少年はテーブルに置かれたコップから水を飲み、近くの椅子に座る。登ってくる階段の反対側には、降りるための階段もあるのだが、少年には降りる気がない。足音はするが、他の聖騎士たちはまだまだ到着していない。

「今日はどんな話を聞かせてくれるの?」
「何を聞きたい? 先日の花祭りの屋台の話? オオトカゲリュウの肉を捌いた話? それとも、総主教様の奥方が怒鳴りながら乗り込んできた話?」
「えぇ~! どれも気になる!」

 少年は、一番に小礼拝堂に登ってきて、聖女に塔の内外で起こった事件や噂話を話して降りていく。その間に、最上階の小礼拝堂にたどり着いた、苦しそうな表情の聖騎士たちが、水を飲んですぐに反対側の階段から降りていくのだが、少年はまったく気にすることなく身振り手振りを交えながら聖女に話をする。半年で慣れたのか、聖騎士たちが悪態をつくことも、無理やり少年を連れて行くこともない。
 聖女は、少年とのこの会話を、とても楽しみにしている。歌うことしか娯楽のなかった聖女が見つけた、新たな楽しみだ。少年の話は面白く、涙が出るまで笑ってしまうこともある。反対に、涙が出るほど感動することもある。
 一番最後に聖なる塔から出た少年が、団長から叱られていることを聖女は知っているのだが、どうしてもこの楽しみを手放す気にはなれなかった。
 聖女の唯一の幸福は、少年との会話だったのだ。

 聖女は毎日、眼下を眺めながら「今日はどんな事件が起こっているのかしら」と想像して微笑む。聖女はその日々さえも慈しんでいる。
 それでも時折、退屈さや寂しさから、ここではないどこかへ行ってしまいたいと願うことはあった。できれば誰かに連れ出してもらいたい、と故郷の歌に乗せて願うことは、あった。

 ――今日も彼は魔物の肉を捌いているのかしら。
 ――今日は、塔を登る鍛錬はないのかしら。
 ――今日、彼は来ないのかしら。

 聖女が耳を澄ましても、階段から足音は聞こえない。今日の聖騎士団は足腰を鍛える訓練はしないのだろう。
 聖なる塔を登る鍛錬がないとき、聖女は歌を歌う。退屈で寂しくてたまらない気持ちのまま、歌う。少年との他愛のない会話を、あの穏やかで楽しい時間を、聖女は毎日待ち望んでいたのだ。
 少年が入団して二年あまり。背もぐんと伸び、筋肉がつき、精悍な顔立ちになった。「少年」ではなく「青年」と呼んでもいい年頃となった。しかし、聖女の中では、いつまでも彼は可愛くて優しい少年のままであった。

「聖女様、僕、結婚するんだ」

 ある日、青年が口にした一言が、聖女の心をひどくかき乱した。
 お喋り好きな青年は、聖女が聞いてもいないのに結婚相手のことを話す。頬を赤らめながら、いつも通り饒舌に。聖女の「そうなんだ……」という力ない声にも気づかずに。どうして聖女が悲しそうな表情をするのか理解もせずに。

 青年が去って行ったあと、聖女の瞳から涙が溢れた。心からも、何かが溢れた。胸が痛く、とても苦しい。悲しくて、寂しくて、仕方がない。
 聖女は、ようやく気づく。「誰かに連れ出してもらいたい」その「誰か」を、青年に望んでしまっていたことを。いつか塔を降りて、青年と一緒に過ごしたいと願っていたことを。
 聖女は、恋の自覚もないままに、恋を失ったのだ。そして、それきり、歌を歌うのをやめてしまった。

 しかし、聖女の仕事は休むことはできない。どれだけ苦しくても、悲しくても、国と民のために祈らなければならない。聖女は一人、唯一無二の存在だ。
 ボロボロ泣きながら祈りを捧げていたとき、バサリと何かの羽ばたきの音がした。「何かしら?」と窓の外を見ようとした瞬間、聖女は硬直した。窓の外から、真っ黒に輝く何かがこちらを見ていたのだ。涙は一瞬で乾いてしまった。

『ぎゃあぎゃあ泣いてうるさいな。しかし、なかなか美味しそうな娘じゃないか』

 ガンガンガンと魔物の襲来を告げる鐘の音が響く。聖女の祈りでも防ぐことができなかった、強大な魔物だ。自分の力ではどうすることもできない相手だと、聖女も理解している。

 ――あぁ、聖母様……!

 しかし、それでも、祈らずにはいられなかった。祈ることしかできないのが、聖女なのだ。

 ――どうか、民たちをお守りくださいませ!

 自分のためではなく、生きとし生ける民のために。その中には、もちろん、怒りっぽい総主教の奥方も、花祭りの屋台で美味しい料理を売っていた人々も、訓練に明け暮れる聖騎士たちも、あの青年も含まれている。結婚するんだと屈託なく笑っていた、あの青年も、結婚相手も。
 ガラガラと天井が崩れて、石や煉瓦が落ちてくる。黒い魔物の巨大な体躯があらわになる。漆黒の翼に、闇を宿す瞳。鋭い牙に爪。蛇のようなものが肌を覆い、ヌメヌメと蠢いている。聖女はゾッとする。

 ――こんな巨大な魔物の侵入を許してしまっただなんて! この魔物が塔の下に降りたら、街に降りたら、どれだけの犠牲が出るというの……!

 聖女は魔物と対峙してもなお、自分の死を恐れることはない。ただ、国と民のことを想う。だからこそ、聖女の適性があったのだ。

「ど、どうしてここへ? あなたは誰?」
『お前が俺を呼んだのだろう』
「呼んだ?」
『長らく歌を聞かせてくれていたが……先日、連れ出してくれ、と俺を呼んだではないか。泣き叫びながら。あの悲鳴のような願い、あれは嘘か?』

 聖女の祈りが魔物を阻んで国を守っていた。しかし、聖女のささやかな願いが魔物を呼んでしまった。魔物の侵入を許してしまったのが他ならぬ自分であると、聖女はようやく理解する。

「聖女様!」

 聖なる塔を一番に駆け上がってきたのが誰なのか、聖女は背後を見なくてもわかる。今、彼に助けを求めてはいけないということも、聖女は理解している。

「……嘘だとしたら、この国はどうなるの?」
『俺を謀った罪は重い。国は滅びゆくだろう』
「聖女様、下がってください! 聖女様! くそっ、結界か!?」

 背後の彼の声を、聖女は無視する。

「あなたが私を連れ出してくれるなら、国と民には手を出さない?」
『……そうだな。約束してやろう』
「聖女様、こちらへ! 聖女様っ!!」

 聖女の心は決まった。一歩、足を踏み出す。恋をした青年のほうではなく、自分をさらいに来た魔物のほうへ。

「聖女様! 聖女様っ!」

 ドンドンと何かを叩くような音が響く。青年の声も聞こえる。しかし、聖女は振り向かない。自分が愚かな願いを抱いてしまった、その結末だ。聖女はただ、国と民の無事を祈る。

『では、願いのままに、連れ出してやろう』

 大きな爪が、聖女の細い体を掴む。バサリと翼をはためかせて、魔物は空へと飛び上がった。聖騎士の剣も、矢も、青年の声も、何も届かぬ空へと。

「わ……あ」

 塔の最上階から見る景色と、目の前に広がる景色は、まったく違った。建物も、人も、あの塔でさえも、ぐんぐん小さく、遠くなっていく。
 あんな小さな塔に閉じ込められて、小さな恋に身をやつしていたのだと思うと、聖女は情けない気持ちでいっぱいになる。

「私を、今すぐ食べるの?」
『……今すぐ食べられたいのか?』
「もう少し、空を飛んでからがいいかな。気持ちがいいから」

 魔物は約束を守り、遠く、遠くへと飛んでいく。いくつかの国を超え、いくつかの海を超え、いくつかの夜と昼を超え、やがてたどり着いたのは、茨に囲まれた小さな島。その島に降り立ち、魔物はようやく聖女を解放する。
 周りが森で囲まれた島の中央、綺麗にならされた草の上に立ち、聖女は伸びをしたあと魔物を見上げた。

「お腹空いた?」
『……別に、空いていない』
「途中で木の実食べたもんね。ありがとう、私にも食べさせてくれて」

 聖女はもう気づいている。この魔物が「連れ出して欲しい」という聖女の願いを純粋に叶えただけであるということに。そして、この魔物がそもそも草食であることにも。
 何しろ、魔物は魚すら食べないのだ。聖女のためになら簡単に捕らえるくせに、見向きもしない。木の実が大好物なのだ。
 そして聖女は、着ていた茶色の服が木の実に似ていることに、昨日気づいた。魔物は聖女を食べる気がないのだと、そのとき理解した。

「国も仕事もなくなっちゃった。ねぇ、ここにいてもいい?」
『……好きにしろ』
「うん、じゃあ、好きにする」

 聖女がいなくなっても、また新たな聖女が神託とともに現れる。先代もそうであった。聖女は自分が代わりのきく存在であることをよく知っている。
 お喋り好きな青年はきっと、新たな聖女にまた話しかけるだろう。自分のことなんて、すぐに忘れてしまうだろう。
 聖女はもう、泣かない。彼を想って流す涙は枯れてしまった。

 三日三晩、聖女を優しく抱きしめたまま飛び続けた魔物は、眠そうに草の上に横たわる。ヌメヌメと蠢いていた蛇のような触手も、デロンと伸びている。聖女は魔物の周りをぐるぐると回りながら、その姿を、全貌を確認する。木の実ばかり食べるためか、割といい匂いがする。

「ねぇねぇ、あなたの名前は? なんていう生き物なの? あなた、お喋りは好き? 私の話し相手になってくれる?」
『……質問は一つにしろ』
「三日三晩寝ずに飛び続けて、あんなに遠い国にいる私の願いに応えてくれたの?」

 魔物は眠そうにあくびをして、答えた。

『……二日だ』
「そっか。来るときは速かったんだね」
『もう、あんなに泣くな。頭に響いて、眠ることさえできやしない』
「じゃ、泣かさないで。ずっと」

 聖女は魔物の前足のあたりに座り、魔物に体を預けてごろんと横になる。聖女はもう、魔物が近づかないように祈りを捧げることはない。
 魔物は一瞬面食らったものの、再度あくびをして漆黒の瞳を閉じた。五日間、ほとんど眠っていなかったのだ。眠くてたまらなかったのだろう。

『……歌を、歌え』
「いいよ、あなたのためだけに歌ってあげる」
『あぁ、そうしろ』

 歌と木の実を好む魔物は、聖女を優しく抱き寄せた。聖女は微笑みながら、歌を歌う。優しくあたたかな子守唄を。

 魔物と聖女だった娘は、小さな島で静かに暮らす。誰にも邪魔されることのない、自由な場所で、二人きり、末永く幸福に。

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