失恋・「君がため」関連作品(2015)

◆◇◆◇◆

 三階にある国語準備室をノックする。

「はい」

 先生の声が聞こえたから、扉を押し開けて先生の姿を見つける。今日は机の前に座っていた。パソコンで作業をしている。昨日は棚の整理をしていた。一昨日は私たち用の資料を作っていた。その前は、うたた寝をしていた。

「今日は何をしているの?」
「明後日の小テストを作っているんです」

 先生は一瞬私の姿を見て「あ、しまった」と困ったような顔をする。

「……内緒ですよ。内藤さん」
「わかってるよ。皆には言わないから」
「助かります」

 私はこの国語準備室が好きだ。コーヒーの匂いが染み込んだ本や資料、ラベンダーの落ち着く香り、山積みになった本、その中で作業をする大好きな人。
 先生、私はあなたがいるから、ここが好きなんです。
 いえ、好きでした。

「……先生」
「はい」
「おめでとうございます」

 先生はキーボードを叩く手を止め、軋む椅子をくるりと回転させる。そして、私を見つめる。
 今日は、私、大きめの作業用のテーブルでだるーんと伸びてはいない。テーブルに荷物を置いたまま、立ち尽くしている。
 涙を浮かべて。

「内藤さん」
「職員室で他の先生が話していたのを聞いたの。別に、盗み聞きをするつもりじゃなかったのに」
「そう、ですか」

 私、先生を困らせたいわけじゃないのに。困ったように笑う先生が好きだったけど、本当に困らせたいわけじゃないの。

「ご結婚、おめでとう、ございます」

 涙が溢れて止まらないのに、先生、私は、生徒の中の誰よりも先に――そう、一番に、あなたに「おめでとう」って言いたかった。
 私じゃあなたの一番にはなれないから、せめて。

「ありがとう、内藤さん」

 古い椅子がぎしりと軋む。先生は立ち上がって、ケトルの電源を入れる。涙でぼやけて見えないけど、ずっと通いつめていたのだから、どこに何があって、先生がどう動くのかを把握している。

「コーヒー、入れますね」
「甘い、やつで」

 ミルクも砂糖もたっぷりの、甘いコーヒー。まだまだ子どもの舌に、先生と同じブラックは無理。
 だから、私じゃ駄目なんだというのも、わかっている。
 差し出されたタオルハンカチをふんだくって、私は先生を睨む。

「恋人が、いないふり、上手、だった」
「すみません」
「そんなに、里見、先生が、好き?」
「まぁ、結婚するくらいには」

 先生に怒りをぶつけたって、仕方がない。この怒りは、不甲斐ない私に向けられるべきものだ。先生を、里見先生より先に恋人にできなかった、私への、怒り。奪いたい気持ちを抑え切れない、怒り。

「結婚式は、するの?」
「ええ。四組は全員呼びますよ」
「……行きたくない」
「そんなこと、言わないでください」

 甘いコーヒーが私の前に置かれる。先生の誕生日に贈ったペアのマグカップに入ったコーヒー。先生が赤、私が青。里見先生に使わせていないといいんだけど、先生にそういう機微は期待できない。きっと、里見先生もこのマグカップを使ったんだろうと思うと、腹が立つ。
 ぐすぐすとしゃくりながら、私は甘くて熱いコーヒーに口をつける。

「里見先生、まだ一年目なのに、結婚早いね」
「教え子ですから」
「あ、そうなんだ。え、まさか、里見先生が高校生だった頃から?」
「いいえ、里見先生が赴任してきてからです」

 先生はまた椅子に腰掛ける。私は立ったまま、行儀悪くコーヒーを飲む。

「先生、もてるでしょ?」
「ええ。だから、いつも卒業式のあとが大変なんです」

 悪びれもせず、事実を淡々と喋る先生が好き。好きだった。

「卒業して生徒じゃなくなったから付き合ってくれ、って?」
「そうです。だから、『大学を卒業して無事に社会人になったら、ようやく私と対等です。あと五年後にまだ私のことを覚えていたら、また口説きにきてください』と返事をして」
「で、口説きにきたのが、里見先生?」

 先生はマグカップに口をつける。頬が赤くなったのは、きっとコーヒーのせいではない。

「……先生、私」

 馬鹿げている。私なんて相手にされないことくらい、わかっている。わかっているのに。
 想いを伝えないままで、私は、結婚式には、出られない。

「……私ね、先生のことが好き」

 先生は私の目をしっかり見つめてくれる。驚きもせず、ただ、穏やかな視線で、私を包んでくれる。
 先生、好き。
 好きだった。
 過去にするには、辛くて悲しいくらい、好きだった。

「一年のときから、ずっと好き。作文を絶対褒めてくれたし、音読のときも声がよく通るねって言ってくれたし、授業中も寝ないでちゃんと起きてるねって私を見てくれてたし……私、ずっと、ずっと、好き、だったの、先生、のこと」

 顔を上げられない。涙で前が見えない。タオルハンカチは既にびしょびしょだ。
 こんなふうに泣いて先生を困らせて、私はひどい生徒だ。
 でも、逃げたくないの。自分の本心から。
 そして、先生にも、逃げてもらいたくないの。私の気持ちから。
 私はわがままだから、先生にも向き合ってほしいの。私の恋心に。

「先生にとっては、ただの生徒の一人でしかないけど……私にとっては、先生は、大好きな人だから」

 先生、大好き。
 大好き、だった。

「内藤さん」

 穏やかな声に、私は肩を震わせる。私はもう、先生に「五年後に」とは絶対に言われない。だって、先生は、もうすぐで結婚してしまう。五年後、がないことくらい、わかっている。

「私はね、内藤さん」

 ふわりと漂うコーヒーの匂い。ラベンダーの匂いより強く、脳に染み付いている。私は、コーヒーの匂いを嗅ぐたびに、先生を思い出すんだ。きっと。

「あなたの気持ちには気づいていましたよ。嬉しくて、くすぐったくて、いつもあなたの笑顔に救われていました」

 私、先生を救ってた?

「酷い人間でしょう? 受け入れられない気持ちだと言いながら、その気持ちに救われているだなんて」

 先生はマグカップを両手で抱えて私を見つめている。

「教師も人間ですから、生徒にどんな形であれ、ずっと覚えていてもらいたいものなんですよ。恋をしていたという事実は、きっと、ずっと、記憶に残るでしょう?」
「私は、先生を覚えていますっ!」

 先生を忘れたりなんかしない。絶対に。こんなに恋焦がれた人のことを、簡単に忘れられるわけがない。

「そう、内藤さんはきっと忘れないでしょう。私が内藤さんのことを忘れないように。でも、忘れてしまうものなんですよ、人間は」

 先生は誰かに忘れられてしまったかのような、悲しげな表情で笑っていた。私は先生にそんな顔で笑ってもらいたくない。
 先生には、心からの笑顔が、似合うから。

「……私があと五年早く生まれていたら、先生は私を選んでくれた?」
「そう、ですねぇ……里見先生と内藤さん、どちらを選ぶかはわかりませんが、二人が私を取り合っている姿は簡単に想像できるので、ちょっと面白いかもしれません」
「もう、酷いっ」

 先生は、笑う。
 私、先生の笑顔が大好き。
 先生を笑顔にしてくれるなら、里見先生でも、いいよ。

「先生」
「はい、内藤さん」
「里見先生には言わないから、一度だけ、ぎゅって、して」

 先生は一瞬目を見開いて、うーんと唸ったあと、マグカップを机に置いた。

「内藤さんが、結婚式に出てくれるなら」
「出ます、出ますから!」
「じゃあ」

 先生は、椅子を軋ませ立ち上がったあと、両手を広げて。

「どうぞ?」

 私もタオルハンカチを置いて、ゆっくり、先生の体に抱きつく。
 柔らかい体。あたたかい。コーヒーの匂いがふわりと鼻をくすぐる。背中に手を回して、ぎゅうと抱きしめる。先生は背中を撫でてくれる。
 私とそう身長が変わらないのに、教壇に立つと、いつも大きく見えていた先生。こんな華奢な体で、大きな声を出していたんだなぁと感心する。

「ドレスは決めたの?」
「まだですよ」
「先生のウェディングドレス、絶対に綺麗だよ」
「そうですかねぇ。そうだといいんですけど」

 首筋にキスマークでもつけたら、里見先生は驚くだろうか。そんな度胸はないけれど。

「里見先生が羨ましい」
「それは、恋人だから? それとも、男だから?」
「両方ですっ!」

 私が五年早く生まれていても、十年早く生まれていても、きっと里見先生には敵わない。先生が「子どもが欲しい」と思ってしまったら、私はそれを叶えてあげられないから。

「先生」
「はい」
「先生のことが好きでした。大好きでした。振ってくれてありがとうございました」

 先生は耳元で「ふふっ」と軽やかに笑って。

「ありがとう、内藤さん。私を好きになってくれて」

 私は、先生だから、先生を好きになったから、こんなにも幸せな気持ちで、受け入れることができたんだと思う。

 私の失恋と、私の進路を。

 五年後に、また、先生に会いに来ます。
 生徒じゃなく、先生として。
 そしたら、先生も、私のことを絶対に忘れないでしょう?

 ね、小夜先生?

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