コメディ(2017)
◆◇◆◇◆
「ご主人と別れて欲しいんです」
菊ちゃんがそう切り出したのは、彼女が中ジョッキを一気に空けた直後だ。酔いなんて回っていないうちから、そんなヘビーな話。せめて、私は酔っている状態で聞きたかった。
施設内にあるこの店は、昼間はレストラン、深夜は居酒屋『天狗』になる。店長が近くの川で獲った鮎やイワナを出してくれる。塩焼きがとても美味しい。キュウリの糠漬けも私好みの漬かり具合。ビールのあとは辛口の日本酒が欲しくなる。
冬になると、たまに猪や鹿の鍋も出る。そのときは大勢の人が来るけれど、今夜は客の入りがぼちぼちだ。店長も暇そうに長い鼻をかいている。
料理だけでなく、ガラス張りで星空がよく見える二階の個室を、私はすごく気に入っている。いや、気に入っていた。次に来ることはもうないかもしれない。こんな最悪の思い出ができてしまった居酒屋に通うのは難しいかもしれない。
――そうだ、最悪だ。
菊ちゃんは私の夫の同僚。家族を交えた親睦会のあと、夫から「きみと話したいって言ってる人がいるんだけど、連絡先を教えていいかな?」と聞かれた相手が菊ちゃんだった。
何度かメッセージのやり取りをしたあと、食事に誘われ、やってきたら、このザマだ。
嘘、だと思いたいけれど、夫には前科がある。付き合っているときに、どこの馬の骨かわからない女に骨までしゃぶられたことがあるのだ。
そんな前科がありながら、自分の不倫相手の連絡先を妻に教えるなんて、夫もどうかしてる。見た目通り、頭が空っぽなのだろうか。
不倫相手の奥さんにいきなり離婚を迫るなんて、この子もかなりおかしいのかもしれない。せめて、夫から「別れよう」と切り出すべきであろう。
「もう、我慢できないんです」
目にいっぱい涙を溜めながら、菊ちゃんはキリと私を見据える。
何だろう。彼女を憎む気持ちはない。恨む気持ちもない。同情心は、ある。「骨抜きにされてかわいそうね」と思う気持ちだけ。
「私、ご主人を見るたび、つらくて」
同僚ですもんね。嫌でも目に入るでしょうね。
「奥さんとメッセのやり取りをするたび、気持ちが抑えられなくなって」
わなわなと肩が震えている。
彼女は興奮で。
私は若干の怒りで。
「私……好きなんです」
どうして、こんな、若い子に手を出したの。若くて、かわいい子。本気にさせちゃかわいそうでしょう。
今、この場に夫がいたら、恨み骨髄に徹して、きっと殴っていたに違いない。二回目は許しがたい。
「愛しているんです。だから、別れてください、ご主人と」
ほら、涙が一筋溢れちゃった。こんなになるまで追い詰められちゃって。
かわいそうすぎる。
この子も、私も。
けれど、菊ちゃんはどうしたいのだろう。
私と夫の結婚生活が破綻するまで待っていられなかった事情でもあるのだろうか。
まさか、子どもができたとでも?
あの人、種がないのに?
あぁ、前の泥棒猫と同じで、夫が好きだから、結婚したいのかしら?
「私と別れたら、あなた、結婚したいの?」
「えっ、別れてくれるんですか!?」
「別れたら、の話。結婚したいの?」
菊ちゃんは顔を赤らめる。さっきまで泣いていたのに、急に表情が変わる。切り替えが早い子なのだろう。
もじもじと照れたように視線を外しながら、菊ちゃんは未来のことを考える。
「そりゃ、もちろん、愛していますから、いずれ将来的には……でも、いいんですか? 結婚しても」
「本当に愛し合っているなら、の話ね」
「わかりました、幸せにします!」
私に愛があっても、夫の愛が既に菊ちゃんに移っているのであれば、結婚生活を続ける意味はない。居心地の良い関係、がなくなるだけ。
私たちに子どもはいない。別れるのはそう難しくはない。気持ちの問題だけだ。気持ちの問題だけ。
それが一番難しいのだけど、私だって、夫の幸せを願いたい。
前回は女のほうが本気ではなかったから、あっさりと身を引いたけれど、今回は――菊ちゃんはどうだろう。
菊ちゃんは顔をパァッと輝かせている。とても嬉しそうだ。夫に「幸せにしてもらいたい」ではなく、夫を「幸せにしたい」と考える、不思議な子。
「まぁ、夫の話も聞いてみないと――」
「あ、そう、そうですよね! 別れてくれるかわかりませんものね。すみません、焦っちゃって……やだ、恥ずかしい」
急にトーンダウンした菊ちゃんの言葉に、一瞬の違和感。
……別れてくれるかわからない?
夫は菊ちゃんに「妻と離婚する」「別れる」なんて甘い言葉を投げかけたんじゃないの? それを鵜呑みにして、直談判しに来たんじゃないの?
もしかして、夫の知らないところで、菊ちゃんが盛り上がっちゃっただけ? 夫と一回だけそういう関係になった、とか?
「……菊ちゃん、夫は別れたいんじゃないの?」
「まさか。奥さんにぞっこんですよ?」
「え?」
夫は、私に、ぞっこんですか?
意味がわからない。
「ケータイの待受は結婚式の写真ですし、職場の近くで撮ったプリクラも持ち物にたくさん貼ってますし、休憩時間なんて撮り溜めた奥さんの写真を眺めてニヤニヤしています」
「は、はぁ……」
「昨日なんて『この妻の寝顔に骨抜きになっちゃったんだよねー』なんて言って奥さんの寝顔見せられましたよ! ほんと、羨ましい! あの人、骨を抜いたら死ぬでしょ! あ、死んでくれたほうが都合はいいんですけど!」
……はい?
あ、寝顔の写真はあとで消しておくにして……羨ましい?
菊ちゃんのテンションに、ついていけない。彼女が若いからというだけではなく、なんていうか、話の内容的に。
「だから、お願いをしに来たんです」
菊ちゃんの瞳は真剣そのものだ。
「ご主人と別れて、私と結婚してください!」
……ええと、菊ちゃんが好きなのは、もしかして。
「えっ、私?」
予想外の展開に、体から水分が抜けてしまいそうだ。早めに水を補給しておかないと。マズい、マズい。
と、いきなり、菊ちゃんに手を包まれる。暖かい手のひらに包まれる。……暖かいものは、苦手。熱い人は苦手。熱気に当てられ、干からびてしまいそうになる。
たぶん、菊ちゃんは私の特性なんて知らないのだろう。
「奥さんのことは、私が必ず幸せにしますから!」
久しぶりにプロポーズされました。
目をキラキラさせた、熱い熱い女の子から。
◆◇◆◇◆
「ご主人から写真だけは見せてもらっていて、綺麗な人だなぁとは思っていたんですけど、実際お会いしたら、ほんと、お綺麗で」
菊ちゃんの目がハートマーク。少しだけ、ハートは私の頭のあたりに向いている。
グイグイ来る彼女に、私はかなり動揺している。夫への怒りなんてとっくに消えていた。怒る要素など一つもないのだから、当たり前だ。
「すぐに恋に落ちてしまいました。一目惚れです。ご主人と別れて私と結婚してください!」
「ちょっと、待って。私は夫と別れるつもりはないんだけど」
「……わかりました、愛人でもいいです!」
わかってない。
わかってないよね、あなた。
女同士で結婚はそもそも無理だし、話し相手じゃなくて愛人がいいって、つまりはそういうこと、よね? 体が欲しい、ってことよね? 体って言うよりも、私の体の一部が欲しいのよね?
「だって、絶対、私のほうが相性いいですよ!」
「そ、そうかな?」
菊ちゃんは鼻息荒く「そうですよ!」と頭上を見ながら頷く。私の笑顔は引きつっている、はずだ。
「抱きしめた感じは絶対、私のほうがいいです」
「まぁ、確かに柔らかそうね。夫の抱き心地は最悪だから」
「女同士なので、お喋りは楽しいと思います」
「じゃあ、お友達でもいいんじゃないかな?」
「ダメです。あ、私の家には井戸があるので、新鮮な水が手に入ります」
「それは確かに魅力的な物件ではあるけれど」
私は綺麗な水が好きだ。今棲んでいるところも川の水が澄んでいて気に入っている。菊ちゃんの家の地下水は気になるけれど、今棲んでいるところのほうに軍配が上がる。
「……やっぱり、無理よ」
「ご主人のほうが好きですか?」
「そうね」
「愛しているんですか!?」
「ええ、骨の髄まで」
菊ちゃんの瞳がキラキラし始める。今度は涙で。
かわいそうな子。本当に。
「そんなに、好きですか?」
「ええ」
「私じゃダメですか?」
「ええ」
「愛人でも?」
「自分を大切にしなさい。愛人でもいい、なんて言うもんじゃないわよ」
菊ちゃんの瞳から大量に涙が溢れ出す。かわいい女の子を泣かせてしまった。罪悪感に胸が苦しくなる。
仕方がないので、持っていたポケットティッシュから一枚ずつ菊ちゃんに手渡していく。
「うぅっ、一枚、ありがとう、ございます。ぐすっ、好きなんです。二枚……三枚」
「ありがとう。でも、ごめんなさい」
「……う、四枚……ご主人のどこが、ぐす、好きなんですか」
どこ。
しゃくり上げながらティッシュで鼻をかんでいる菊ちゃん。数をカウントするのは、彼女の癖だろう。職業病というやつだ。
「どこ……面白いでしょ?」
「オヤジギャグばっかりじゃないですか、五枚」
「私、ああいうの、好きなの。癒されるでしょ?」
「癒やされません」
即答だ。
若い子にはオヤジギャグはつまらないものなのかもしれない。
私は、夫の底抜けに明るいギャグで、元夫の暴力に耐えていた日々から救われた。骨身を削って私に笑顔を取り戻してくれた、優しい人だ。
元夫とは毎日職場で顔を合わせるけれど、昔も今も相撲に夢中で私のことなんか気にもしていない。昔みたいに相撲の技の練習台にされそうになっても、逃げるすべを覚えたし、そんな職場でも夫のことを思えば耐えられる。
まぁ、一瞬だけ、菊ちゃんとの仲を疑ったけれど、たぶん、私から別れを切り出すことはなかっただろう。骨の髄まで愛しているのは、間違いではない。
「六枚……」
「あ、すみません、季節のフルーツとお水二つください。氷なしで」
「……奥さん、いい脇していますよね」
酔っ払いに成り下がった菊ちゃんの声に、思わず、店員を呼び止めた手を下ろす。胸を見られることは多いけど、脇を見られるとは。ちょっと……いや、かなり恥ずかしい。
まぁ、菊ちゃんが本当に好きな部位は脇ではないことくらいは知っているけれど。
「奥さんて、いい体していますよね」
「菊ちゃん、飲み過ぎ」
「一回だけ相手をしてくれませんか?」
「菊ちゃん」
「一回だけ! 一回だけでいいので!」
……この酔っ払い、ここに置いていこうかしら。
そこらの男と同じようなことを菊ちゃんから言われるなんて、本当に残念だ。
カラコロよく響く下駄を履いた店員が無言でグラスと皿を置いていく。『天狗』の人たちは他人の話に興味はないらしい。客が少ないので、羽を休めながら働いている。ガラスの皿に菊ちゃんが目をキラキラさせている間に、水を飲んで、皿を潤して、「ダメ」と答える。
一口サイズにカットされたフルーツ盛り合わせ。スイカがみずみずしくて美味しい。桃も甘くて本当に美味しい。『天狗』の店長が飛び回っていいものを調達してくれるからか、夏は美味しいものが食べられる。醤油とマヨネーズで食べるキュウリも美味しい。素晴らしい季節だ。
ただし、夫と菊ちゃんの仕事は多忙を極める季節けれど。
菊ちゃんの顔が「ダメですか」とたちまち歪む。仕方がない。無理なものは無理だ。
「七枚ぃぃ」
カウントしながら泣かなくてもいいと思うの。困った子ね、本当に。
「好きなんです、愛しているんです! どうして私じゃダメなんですか!?」
だって、に続く言葉はいくつかある。
だって、女同士だから。
だって、夫を愛しているから。
だって、夫を裏切りたくないから。
だって、私たちは。
「うぅっ、はちま、い……っ」
白み始めた窓の外。
そろそろ戻る時間だ。少し寝たあと、仕事をしなければ。
「菊ちゃん、私、あなたの気持ちには応えられないけれど、話し相手にはなれると思う」
「話し相手じゃ、満足できませんっ!」
「そうね、菊ちゃんは私の体が欲しいんだもの、ね?」
「そん、そんな言い方っ!」
動揺する菊ちゃん。やっぱり図星だったようだ。でも、残念ながら、彼女の望むものは与えてあげられそうにない。
「そんな言い方は、酷いです!」
「でも、菊ちゃんが欲しいのは」
「ほ、欲しいわけではなくて! ただ、奥さんがそばにいてくれたら、すごく安心するからっ!」
涙を流す菊ちゃんに、最後の一枚を渡す。菊ちゃんはティッシュを受け取り、それが最後だと気づいて、テーブルに突っ伏した。
「なん、っで! これも、一枚足りないんですかぁぁ!!」
「菊ちゃん、落ち着いて」
「一枚っ、足りないぃぃぃ!」
一枚足りないと絶叫するのは、彼女の十八番。というか、毎日何回も叫んでいるはず。仕事とはいえ、菊ちゃんも大変だ。
ふと、窓の外、階下に白い人を見つける。どうやら、心配になって夫が迎えに来てくれたみたいだ。手をブンブンと振って壁にぶつけたせいで、いくつか白いものが落ちたのが見えた。相変わらず、そそっかしい。そんなだから、泥棒猫に目をつけられるのよ。
「ほら、そろそろ帰る時間よ。仕事よ。持ち場に戻りましょ」
「……また、会ってくれますか?」
使用済みのティッシュを山盛りにしながら、彼女は私を見上げる。目に涙を溢れさせながら。
「友達としてなら、ね」
「わかりました! 最初は友達からお願いします! いつか必ず、十枚目を、私に……っ!」
わかっているのかいないのか。諦めるのか諦めないのか。菊ちゃんの言葉ではよくわからない。けれど、まぁ、いいか。
十枚目の皿は与えられない。私には優しい夫がいる。菊ちゃんには申し訳ないけど、別れるつもりはない。それでいい。
「気骨が折れる女子会だったわ」
店を出て、階段を降り、白いものを組み合わせている夫へと歩み寄る。今日はメス猫が来ていないみたいだ。あの、夫を追いかけ回すのが大好きな泥棒猫。尻尾が二つあるのだから、今度邪魔をしたら一つ切り落としてやろうか、まったく。
「お疲れ様。お菊さんとは友達になれたかい?」
「友達……なのかな」
「良かったじゃないか。きみは職場に友達がいないって嘆いていたから。昨夜は後ろ髪を引かれる思いできみを見送ったけど、送り出して本当に良かったよ。ま、僕に髪なんてないけどね。ハハハ!」
落ちていた中指の末節骨(まっせつこつ)を夫に手渡して、「そうね」と短く答える。私の職場には女の子が――そもそも、話せる人がほとんどいないから、確かに菊ちゃんと話せたのは嬉しいことではあった。『天狗』の店長も、店員も、喋るほうではないし。
ただ、不倫を持ちかけられるとは思わなかった。このことは、夫には内緒にしておこう。
「頭が空っぽ」だと思ったこととか、殴ろうとしたこととか、ちょっと疑っちゃったことも、内緒。ごめんね。
「お菊さんときみは相性がいいと思うよ」
「そう?」
指の骨をすべてくっつけて、骸骨の夫は、私の頭上を見つめた。
「だって、お菊さんが探している一枚を、きみが持っているからね」
そうかもしれないわね、と笑う。だから、菊ちゃんは私を好きになったのかもしれない。体だけ。
ただ、このお皿が彼女の求める「十枚目」でないことだけは確かだ。替えはないけど、そんな高いものじゃないだろうし。
「じゃあ、また。今夜は一緒に過ごそうね」
「ええ、そうね。行ってらっしゃい」
夫の真っ白な頬にキスをして、彼は「お化け屋敷」へ、私は「空想の生物館」へ、それぞれ戻る。
そんな、深夜の女子会談。
了