ほのぼの(2004)

◆◇◆◇◆

「亜希、助けてくれ!」

 夜中に祐也が私の部屋に駆け込んでくるのにも、もう慣れた。祐也は沈んだ顔のままビーズクッションを抱きしめて座っている。
 私はコーヒーを淹れながら溜め息をつく。今月に入ってもう三度目だ。

「それで、今回の喧嘩の原因は何?」

 コーヒーを一口飲んでから、祐也はクッションを放ってしゃべり始める。相変わらず、喧嘩の多いカップルである。

「奈美子のやつ、俺が浮気しているんじゃないかって疑ってやがる。冗談じゃない。俺がどんなに否定しても『浮気してるでしょ!』の一点張りだぜ。ホント勘弁してくれ。奈美子一人で手一杯なのに。とにかく俺は絶対に浮気なんかしないって、亜希からも奈美子に言ってくれ」

 親友の頼みを断るわけにもいかないが、とりあえずはっきりさせなければならないのは一点のみ。

「で、祐也は浮気したの?」
「するわけがないだろ! 俺がそんな器用な人間じゃないってことくらい、亜希が一番よく知ってるだろうが。それに、俺は奈美子のことが好きなんだ。他に女なんか作るわけがねえよ」

 彼女にあらぬ疑いをかけられた哀れな親友。祐也が不器用な上に一途であることは、確かに私がよく知っている。
 しかし、なぜ奈美子が「浮気しているのではないか」と誤解してしまったのか、そこがわからない。

「奈美子はどうして祐也が浮気しているって言ってるの? 証拠とか突きつけられたわけ?」

 祐也の表情が一気に暗くなる。

「なに? どんなネタを握られてるの?」
「……親父だよ」
「へ?」
「オ・ヤ・ジ!」

 私の頭の中で奈美子をめぐる祐也と父親の三角関係が展開されそうになって、さすがにそれはないだろうと考えを改める。
 けれども、なぜそこで親父さんが出てくるのかが、これまたさっぱりわからない。

「あの野郎が、ウチに遊びにきた奈美子に向かって、いきなり『本当に祐也とキミは付き合っているのかい? この間ウチに来た子とは違うようだけど』とか抜かしやがったんだよ! そこで奈美子が『浮気してるんでしょ! ひどい、別れてやる!』って泣き出して……ホント、最悪だった」

 親父さんと奈美子の声色を真似て祐也は熱演する。祐也には悪いけれど、私はお腹を抱えて笑ってしまった。
 親父さんの言う「この間ウチに来た子」というのは私のことだからだ。

「それにしても、親父のやつ、亜希はただの友達だってわかってるのに、なんであんなわけのわからないことを言い始めたんだか。そのせいで、奈美子は亜希が俺の浮気相手だって信じてしまって」

 ごそり、と布がすれる音。私は大声をあげて笑う。

「アハハハハハ!!」
「笑い事じゃないって!」
「私と祐也が浮気! ありえない! 絶対ありえない!!」
「ホント、ありえねえよ」

 意気消沈する親友は、さっきから溜め息ばかり。コーヒーもぬるくなってしまったことだろう。

「奈美子にメールしても返事はないし、電話しても出ないし。さっきアパートに行っても留守だったし。俺、どうしたらいいのか……っていうか、これは謝るべきなのかどうか」

 確かに、これは完全に奈美子の勘違いなのだから、本来なら浮気していない祐也が謝るのはおかしな話である。
 そして、祐也が謝ることに抵抗感を抱くことも当然のことである。

「だからさ、俺、とりあえず奈美子に会って誤解を解きたいわけよ。話し合いがしたいわけよ。なぁ、頼む、亜希。奈美子に連絡とってくれねえかな」
「いや、この場合、私が連絡取ったら逆効果じゃない? 奈美子にとってみれば、私は祐也の浮気相手なわけだし」
「しまったぁぁぁ!!」

 文字通り頭を抱える祐也。
 肝心なところが抜けているバカな親友である。

「どうすればいいのかな、俺。もう一回メール送ったほうがいいのかな。電話で謝ったほうがいいのかな」
「電話すれば?」
「……いやいやいや、絶対出てくれないって」
「じゃあ、メールすれば? 見るだけならできるでしょ」
「うん、メールする」

 カチカチと、スマホに向かって愛や謝罪の言葉を書き始める祐也を見ながら、私は笑う。カワイイやつだ。

 それにしても、私と祐也が浮気とは、奈美子の想像力にも恐れ入る。
 私たちは親友であり、そこに恋愛感情など一つもない。相手のことをそういうふうには見られないのだ。
 恋人という枠よりは、親友という枠のほうが、私たちには合っている。それだけのことだ。

「何で女って男の浮気に敏感なんだろうな?」

 祐也は心底不思議そうにつぶやく。

「……何でそう思うの?」
「ウチのお袋も、親父が浮気してるかもしれないってぎゃーぎゃーわめいてる。出張がちょっと多かったり、携帯代がちょっと高かったりするだけだぜ。何でそんな些細なことで浮気だと決めつけられるのかがわかんねえ」
「そういうもんだってば。いつもとちょっと違うことがあれば、それがなぜなのか気になるものでしょ。だから、細かいところに気づいたりする。親しい人の髪型が変わったって気づくのは、大体女の人だもんね。男の人は気にしないよね」
「うん、もちろん」

 だから、気をつけていないと、ちょっとした変化を逃して、「変わったのに気づいてくれない」と女の人を怒らせてしまうのだ。

 小さな画面にあふれる祐也の愛の言葉。こんなふうに想われてみたいものだ。もちろん、相手は祐也ではないけれども。

「あんた、奈美子のこと好きだねぇ」

 祐也は送信中の画面を見ながら、真面目に答える。

「当たり前じゃん。もう何年付き合ってると思ってるんだよ」
「三年。結構長いよね。飽きたりしないの?」
「飽きる? 奈美子と一緒にいて、そういうふうに思ったことなんて一度もないよ。いつだって新鮮だよ。あいつと一緒にいるとすげー楽しい」

 聞いているこっちが恥ずかしくなるよ、まったく。

「実はさ、俺、奈美子と結婚するつもりでいるんだ。だから、この間も家に連れて――」

 瞬間、メールの着信音と、クローゼットが開く音と、泣き声が、重なった。

「祐也!」

 突然、クローゼットから飛び出してきた彼女を、祐也は目を丸くして受け止めた。
 奈美子は泣きながら祐也に「ごめんなさい」という言葉を浴びせ、ぎゅっと抱きつく。必死で何が起こったのか理解しようとしている祐也は、私の笑顔を見て、すべてを悟ったようだ。

 奈美子がすごい剣幕で私の部屋にやってきたのは、祐也がやってくるちょうど三十分前。
 祐也がチャイムを鳴らしたときに、無理やり奈美子をクローゼットに押し入れたのは、既に展開が読めていたからだ。

「ごめんなさい、祐也。私が間違っていたんだね」
「い、いや、誤解が解けたんなら、それでいいよ」
「よくない! 私、祐也にいっぱいひどいこと言ったよ! 本当にごめんなさい」
「こっちこそ。いろいろ、ごめん」
「ごほん」

 奈美子のミュールをぷらぷらさせながら、部屋の主である私はわざとらしく咳をした。
 照れ笑いをする二人に、私は微笑みかける。

「誤解は解けましたか、ご両人」

 二人は顔を見合わせて、同時に「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げるのだった。

◆◇◆◇◆

 二人が仲良く手をつないで廊下を歩いて帰るのを見送りながら、私は、今が夏でよかったと心から思った。
 もし今日が冬なら、一時間以上も外に放り出されているあの人は、凍死していたに違いない。

 カーテンと窓を開けると、狭いベランダの端っこで、スーツのジャケットと鞄と靴を持ったまま苦笑いをしている彼と目が合った。

「誤解は解けましたか?」
「あぁ。でも、来月からは出張を控えないとな」
「……いいですよ、今夜じっくりかわいがってくれるなら」

 私は微笑んで、彼を招き入れるのだった。

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